2013年12月30日

宝剣_01

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 曹仁の旗下で、淳于導という猛将があった。
 この日、玄徳を追撃する途中、行く手に立ちふさがった糜竺と戦い、遂に糜竺を手捕りにして、自身の鞍わきに縛りつけると、
「きょう第一の殊勲は、玄徳をからめ捕ることにあるぞ。玄徳との距離はもう一息」
 と、淳于導はなおも勢いに乗って、千余の部下を励ましながら、驟雨の如くこれへ殺到してきたものだった。
 逃げまどう百姓の群れには眼もくれず、淳于導は、趙雲のそばへ駆け寄ってきた。玄徳の一将と見たからである。
「やあ、生捕られたは、味方の糜竺ではないか」
 趙雲は、その敵と鎗をまじえながら、驚いて叫んだ。
 猛将淳于導も、こんどの相手は見損っていた。かなわじと、あわてて馬の首をめぐらしかけた刹那、趙雲のするどい鎗は、すでに彼の体を突き上げて、一旋! 血を撒きこぼして、大地へたたきつけていた。
 残る雑兵輩を追いちらして、趙雲は糜竺を扶けおろした。そして敵の馬を奪って、彼を掻き乗せ、また甘夫人も別な駒に乗せて、長坂橋のほうへ急いだ。
 ――と。
 そこの橋の上に、張飛が馬を立てていた。さながら天然の大石像でも据えてあるような構えである。ただ一騎、鞍上に大矛を横たえ、眼は鏡の如く、唇は大きくむすんで、その虎髭に戦々と微風は横に吹いていた。
「やあっ。それへ来たのは、人間か獣か」
 いきなり張飛が罵ったので、趙雲もむッとして、
「退がれっ。甘夫人の御前を――」と、叱りとばした。
 張飛は、彼のうしろにある夫人の姿に、初めて気がついて、
「おお、趙雲。貴様は曹操の軍門に降伏したわけじゃなかったのか」
「何をばかな」
「いや、その噂があったので、もしこれへ来たら。一颯のもとに、大矛の餌食にしてやろうと、待ちかまえていたところだ」
「若君と二夫人のお行方をたずね、明け方から血眼に駆けまわり、ようやく廿夫人だけをお探し申して、これまでお送りしてきたのだ。して、わが君には?」
「この先の木陰にしばしご休息なされておる。君にも、幼君や夫人方の安否をしきりとお案じなされておるが」
「さもあろう。では張飛。ご辺は甘夫人と糜竺を守って、君の御座所まで送りとどけてくれ。それがしは、またすぐここから取って返して、なお糜夫人と阿斗の君をおたずね申してくる」
 云い残すや否や、趙雲は、ふたたび馬を躍らせて、単騎、敵の中へ駆けて行った。
 すると彼方から十人ほどの部下を従えた若い武者が、ゆったりと駒をすすめて来た。背に長剣を負い、手に華麗な鎗をかかえている容子、然るべき一方の大将とは、遠くからすぐ分った。
 趙雲はただ一騎なので、近づくまで、先では、敵とも気がつかなかったらしい。不意に名乗りかけられて若武者はひどく驚愕した。従者もいちどに趙雲をつつんだが、もとより馬蹄の塵にひとしい。たちまち逃げ散ってしまい。その主人たる若武者は、あえなく趙雲に討たれてしまった。
 その際、趙雲は、
「や。いい剣を持っている」と、眼をつけたので、すぐ死骸の背から剣を奪りあげてあらためてみた。
 剣の柄には、金を沈めて、青スの二字が象嵌されている。――それを見て、初めて知った。
「あ。この者が、曹操の寵臣、夏侯恩であったか」――と。
 伝え聞く、侯恩は、かの猛将夏侯惇の弟であり、曹操の側臣中でも、もっとも曹操に愛されていた一名といえる。――その証拠には曹操が秘蔵の剣「青ス・倚天」の二振りのうち、倚天の剣は、曹操みずから腰に帯していたが、青スの剣は、侯恩に佩かせて、
「この剣に位負けせぬほどな功を立てよ」
 と、励ましていたほどである。



 青スの剣。青スの剣。
 趙雲は狂喜した。
 かかる有名な宝剣が、はからずも身に授かろうとは。
「これは、天授の剣だ」
 背へ斜めにそれを負うやいな、趙雲はふたたび馬へ跳びのって、野に満つる敵の中へ馳駆して行った。
 そのとき曹操の軍兵はすでに視野のかぎり殺到していた。逃げおくれた百姓の老幼や、離散した玄徳の兵を、殺戮して余すところがない。趙雲は義憤に燃ゆる眦をあげて、
「鬼畜め」
 むらがる敵を馬蹄の下に蹂躙しながら、なおも、声をからして、
「お二方あっ。お二方はいずこに」
 と、糜夫人と幼主阿斗の行方を尋ねまわっていた。
 すでに八面とも雲霞の如き敵影だったが、彼は還ることを忘れていた。すると、傷を負って、地に仆れていた百姓の一人が、むくと首を上げて、彼へ叫んだ。
「将軍将軍。その糜夫人かも知れませんよ。左の股を敵に突かれ、彼方の農家の破墻の陰へ、幼児を抱いて、仆れている貴夫人があります。すぐ行ってごらんなさい。つい今し方のことですから」
 指さして教え終ると、そのまま百姓は息が絶えた。
 趙雲は、飛ぶが如く、彼方へ駆けて行った。なかば兵火に焼かれたあばら家が、裏の墻と納屋とを残して焦げていた。馬をおりて、そこかしこを見まわしていると、破墻の陰で、幼児の泣き声がした。
「おうっ、和子様っ」
 彼の声に、枯草をかぶって潜んでいた貴夫人は、児を抱いたまま逃げ走ろうとした。しかし身に深傷を負っているとみえて、すぐばたりと仆れた。
「糜夫人ではありませんか。家臣の趙雲です。お迎えに来ました。もうご心配はありません」
「……おお、趙雲でしたか。……うれしい。どうか、和子のお身をわが良人のもとへ、つつがなく届けて下さい」
「もとよりのこと。いざ、あなた様にも」
「いいえ! ……」
 彼女は、強くかぶりを振った。そして阿斗の体を、趙雲の手へあずけると、急に、張りつめていた気もゆるんだか、がくとうつぶして、
「この痛手、この痛手。……たとえふたたび良人のもとへ還っても、もう妾の生命はおぼつかない。もし妾のために、将軍の馬を取ったら、将軍は和子を抱いて、敵の中を、徒歩で行かねばならないでしょう。……もうわが身などにかまわず、少しも早く和子のお身をこの重囲の外へ扶け出して下さい。それが頼みです。臨終の際のおねがいです」
「ええ! お気の弱い! たとえ馬はなくとも、趙雲がお護りして行くからには」
「オオ……喊の声がする。敵が近づいて来るらしい。趙雲、何でそなたは、大事な若君を預りながら、なお迷っているか。早くここを去ってたも。……妾などは見捨てて」
「どうして、あなた様おひとりを、ここに残して立去れましょう。さ、その馬の背へ」
 駒の口輪を取って引き寄せると、糜夫人は突如身をひるがえして、傍らの古井戸の縁へ臨みながら、
「やよ趙雲。その子の運命は将軍の手にあるものを。妾に心をかけて、手のうちの珠を砕いてたもるな」
 云うやいな、みずから井戸の底へ、身を投げてしまった。
 趙雲は、声をあげて哭いた。草や墻の板を投げ入れて、井戸をおおい、やがて甲の紐をといて、胸当の下に、しっかと、幼君阿斗のからだを抱きこんだ。
 阿斗は、時に、まだ三歳の稚なさであった。



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posted by takazzo at 14:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 赤壁の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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