2013年12月29日

亡流_03

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 この日、曹操はよほど大満悦だったとみえ、さらに、蔡瑁を封じて、平南侯水軍大都督とし、また張允を助順侯水軍副都督に任命した。
 ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然として帰って行った。
「丞相はあまりに人を識らなすぎる。あんな諂佞の小人に、高官を授けて、水軍をまかせるおつもりだろうか」
 彼らの帰ったあとで、慨然と、はばからずこう放言していた者は、荀攸であった。
 曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇を歪めながら、荀攸のほうを見て、
「われ豈人を識らざらんや!」と、耳あらば聞けといわぬばかりに云い返した。
「わが手の兵は、すべて北国そだちの野兵山兵ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修などくわしく知るものはほとんどない。いまかりに彼らを水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまえばいい。――さりとは、荀攸も、人の肚の見えないやつだ」
 面と向っていわれたのとちがって、これはかえって耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまった。
 一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡夫人と劉jのまえに出て、
「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封じようなどと――曹丞相は上機嫌で申されました」などと細々話した。
 翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令て来た。蔡夫人は劉jをつれて、江の渡口まで出迎え拝礼して、城内へみちびいた。
 この日、襄陽の百姓は、道に香華をそなえて、車を拝し、荊州の文武百官もことごとく城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。
 曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとって、腹心の大将や武士に、十重二十重、護られていた。
 蔡夫人は、子の劉jに代って、故劉表の印綬と兵符とを、錦の布につつんで、曹操の手へあずけた。
「神妙である。いずれ、劉jには、命じるところがあろう」
 曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱えて、入城の儀式はまず終った。式がすむと彼は、まず荊州の旧臣中から蒯越をよび出して、
「予は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを衷心からよろこぶ」
 といって――江陵の太守樊城侯に封じた。
 以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲や傅巽を関内侯に封じた。
 それから、ようやく、劉jにむかって、
「あなたは、青州へ行くがよい。青州の刺史にしてあげる」と至極、簡単に命じた。
 劉jは、眉を悲しませて、
「わたくしは、官爵に望みはありません。ただいつまでも亡父の墳墓のあるこの国にいたい」
 と、哀訴した。
 曹操は、にべもなく、かぶりを振って、
「いやいや、青州は都に近い良い土地がら、ご成人ののちは、朝廷へすすめて、官人にしてあげる用意じゃ。黙ってゆかれるがいい」と、突っ放した。
 ぜひなく、劉jは母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く泣くも生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立ったが、変りやすい人ごころというものか、つき従う供の者とて幾人もなく、ただ王威という老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守って行ったきりだった。
 そのあとである。曹操はひそかに于禁をよんで、なにか秘密な命令をさずけた。于禁は屈強なものばかり五百余騎をひッさげて、直ちにあとを追いかけた。
 ここ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱にそめて、凄愴な殺戮は、彼らの手によって決行された。――蔡夫人や劉jの車駕へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思うと、たちまち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺し、野を馳けまわった。
 老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残った者もなかった。



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posted by takazzo at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 赤壁の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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