2013年12月29日

亡流_02

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 左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。
「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」
 と、人々に嘆き諫められて、玄徳もようやく死を思い止まった。
 関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶け、老幼を守って後から渡ってきた。かくてようやく皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽へ急いだ。
 襄陽の城には、先頃から幼国主劉j、その母蔡夫人以下が、荊州から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て、
「賢姪劉j、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命を救われよ」と、大音をあげた。
 すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
 玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦くなるばかりだった。
 ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は魏延、字は文長、突如味方のなかから激声をあげて、
「劉玄徳は、仁人である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞い、国を売るの賊、汝らこそ怪しからん。――いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」と云い出した。
 蔡瑁は仰天して、張允に、
「裏切り者を討て」と命じた。
 時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや吊橋をおろし、
「劉皇叔! 劉皇叔! はやここより入り給え」
 と、叫んでいる様子に、張允、文聘などが、争ってそれを妨げていた。
 城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、鼎の沸く如く、ただ事とも思われないので、
「待て、しばし」と急に押し止め、
「孔明、孔明。ここの進退は、どうしたらいいか」と、訊ねた。
 孔明は、うしろから即答した。
「凶血が煙っています。おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」
「えっ、江陵へ?」
「江陵の城は、荊州第一の要害、銭糧の蓄えも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
「おお、急ごう」
 玄徳が引っ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕っていた城中の将士は、争って、蔡瑁の麾下から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追って行く者、引きも切らないほどだった。
 そうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、巳の刻から未の刻の頃まで、なお戦っていた。
 そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに玄徳は遠く去ってしまったので、やむなくひとり長沙へ落ちて、後、長沙の太守韓玄に身を寄せた。
 さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、車駕担輿など雑然と続いて行く始末なので道はようやく一日に十里(支那里)も進めば関の山という状態であった。
 これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につつまれたら、ほとんど一人として生きることはできますまい。もうご決断を仰がなければなりません」
 と、眉に悲壮なものをたたえて玄徳にこう迫った。



 落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
「背に腹はかえられません」
 孔明は諭すのであった。玄徳の仁愛な心はよく分っているが、そのため、敵の殲滅に会っては、なんの意味もないことになる。
「ここは一時、涙をのんでも、百姓、老幼の足手まといを振り捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、ついに曹軍の好餌となるしかありますまい」
 というのであった。
 が――玄徳は依然として、
「自分を慕うこと、あたかも子が親を慕うようなあの領民を、なんで捨てて行かれようぞ。国は人をもって本とすという。いま玄徳は国を亡ったが、その本はなお我にありといえる。――民と共に死ぬなら死ぬばかりである」と云ってきかなかった。
 このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭いた。
 さらばと、――孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾に、兵五百を分けて、
「江夏におられる嫡子劉g君のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会いあるべしと、この書簡をとどけられよ」と、玄徳のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
 さてまた。
 曹操はその中軍を進めて、宛城から樊城へ移っていた。
 入城を終るとすぐ、書を襄陽へ送って、
「劉jに対面しよう」と、申し入れた。
 幼年の劉jは怖ろしがって、「行くのはいやだ」と、云ってきかない。そこで名代として、蔡瑁、張允、文聘の三人が赴くことになったが、その際、劉jへむかって、そっと、すすめたものがある。
「いま曹軍を不意に衝けば、きっと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕りきって油断しておりますから。――そこで、天下は荊州になびきましょう。こんな絶好な機会などというものは、二度とあるものではありません」
 これが蔡瑁の耳に入ったので、調べてみると、王威の進言だと分った。
 蔡瑁は怒って、
「無用な舌を弄して、幼少の君を惑わすもの」
 と、斬罪にしようとしたが蒯越のいさめによって、ようやく事なく済んだ。
 こんな内輪もめがあったのも、過日来、玄徳同情者の裏切りや脱走が続いて以来その後も、藩論区々にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥や党派の対立もからまって、荊州は今や未曾有な動揺をその内部に蔵していたからである。
 しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によって、率いて行こうと考えていた。――で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色諂佞をきわめたものだった。
 曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚に見おろしながら、
「荊州の軍馬、銭糧、兵船の量は、およそどのくらいあるのか」と、たずねた。
 蔡瑁は、答えて、
「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千余艘もあり、金銀兵糧の大半は、江陵城に蓄え、そのほか各地の城にも、約一年余ずつの軍需は常備してあります」
 と、つつむ所もなかった。
 曹操は満足して、
「劉表は存命中、荊州王になりたがっていたが、ついに成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉jは、いつかかならず王位に封じてやるぞ」と、約束した。



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posted by takazzo at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 赤壁の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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