2013年12月29日

亡流_03

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 この日、曹操はよほど大満悦だったとみえ、さらに、蔡瑁を封じて、平南侯水軍大都督とし、また張允を助順侯水軍副都督に任命した。
 ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然として帰って行った。
「丞相はあまりに人を識らなすぎる。あんな諂佞の小人に、高官を授けて、水軍をまかせるおつもりだろうか」
 彼らの帰ったあとで、慨然と、はばからずこう放言していた者は、荀攸であった。
 曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇を歪めながら、荀攸のほうを見て、
「われ豈人を識らざらんや!」と、耳あらば聞けといわぬばかりに云い返した。
「わが手の兵は、すべて北国そだちの野兵山兵ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修などくわしく知るものはほとんどない。いまかりに彼らを水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまえばいい。――さりとは、荀攸も、人の肚の見えないやつだ」
 面と向っていわれたのとちがって、これはかえって耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまった。
 一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡夫人と劉jのまえに出て、
「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封じようなどと――曹丞相は上機嫌で申されました」などと細々話した。
 翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令て来た。蔡夫人は劉jをつれて、江の渡口まで出迎え拝礼して、城内へみちびいた。
 この日、襄陽の百姓は、道に香華をそなえて、車を拝し、荊州の文武百官もことごとく城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。
 曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとって、腹心の大将や武士に、十重二十重、護られていた。
 蔡夫人は、子の劉jに代って、故劉表の印綬と兵符とを、錦の布につつんで、曹操の手へあずけた。
「神妙である。いずれ、劉jには、命じるところがあろう」
 曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱えて、入城の儀式はまず終った。式がすむと彼は、まず荊州の旧臣中から蒯越をよび出して、
「予は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを衷心からよろこぶ」
 といって――江陵の太守樊城侯に封じた。
 以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲や傅巽を関内侯に封じた。
 それから、ようやく、劉jにむかって、
「あなたは、青州へ行くがよい。青州の刺史にしてあげる」と至極、簡単に命じた。
 劉jは、眉を悲しませて、
「わたくしは、官爵に望みはありません。ただいつまでも亡父の墳墓のあるこの国にいたい」
 と、哀訴した。
 曹操は、にべもなく、かぶりを振って、
「いやいや、青州は都に近い良い土地がら、ご成人ののちは、朝廷へすすめて、官人にしてあげる用意じゃ。黙ってゆかれるがいい」と、突っ放した。
 ぜひなく、劉jは母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く泣くも生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立ったが、変りやすい人ごころというものか、つき従う供の者とて幾人もなく、ただ王威という老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守って行ったきりだった。
 そのあとである。曹操はひそかに于禁をよんで、なにか秘密な命令をさずけた。于禁は屈強なものばかり五百余騎をひッさげて、直ちにあとを追いかけた。
 ここ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱にそめて、凄愴な殺戮は、彼らの手によって決行された。――蔡夫人や劉jの車駕へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思うと、たちまち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺し、野を馳けまわった。
 老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残った者もなかった。



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亡流_02

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 左右の人々はおどろいて玄徳を抱きとめた。
「死は易く、生は難し。もともと、生きつらぬく道は艱苦の闘いです。多くの民を見すてて、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」
 と、人々に嘆き諫められて、玄徳もようやく死を思い止まった。
 関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶け、老幼を守って後から渡ってきた。かくてようやく皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽へ急いだ。
 襄陽の城には、先頃から幼国主劉j、その母蔡夫人以下が、荊州から移住している。玄徳は、城門の下に馬を立て、
「賢姪劉j、ここを開けたまえ、多くの百姓どもの生命を救われよ」と、大音をあげた。
 すると、答えはなくて、たちまち多くの射手が矢倉の上に現われて矢を酬いた。
 玄徳につき従う数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちてくる。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のような悲しみに、地も空も晦くなるばかりだった。
 ところが、これを城中から見てあまりにもその無情なる処置に義憤を発した大将があった。姓は魏延、字は文長、突如味方のなかから激声をあげて、
「劉玄徳は、仁人である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞い、国を売るの賊、汝らこそ怪しからん。――いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」と云い出した。
 蔡瑁は仰天して、張允に、
「裏切り者を討て」と命じた。
 時すでに、魏延は部下をひきいて、城門のほうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あわや吊橋をおろし、
「劉皇叔! 劉皇叔! はやここより入り給え」
 と、叫んでいる様子に、張允、文聘などが、争ってそれを妨げていた。
 城外にいた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打って駆け入ろうとしたが、城中の空気、鼎の沸く如く、ただ事とも思われないので、
「待て、しばし」と急に押し止め、
「孔明、孔明。ここの進退は、どうしたらいいか」と、訊ねた。
 孔明は、うしろから即答した。
「凶血が煙っています。おそらく同士打ちを起しているのでしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」
「えっ、江陵へ?」
「江陵の城は、荊州第一の要害、銭糧の蓄えも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
「おお、急ごう」
 玄徳が引っ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕っていた城中の将士は、争って、蔡瑁の麾下から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追って行く者、引きも切らないほどだった。
 そうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまい、ただ一騎となって、巳の刻から未の刻の頃まで、なお戦っていた。
 そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となって、城外へ逸走してきたが、すでに玄徳は遠く去ってしまったので、やむなくひとり長沙へ落ちて、後、長沙の太守韓玄に身を寄せた。
 さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向って行ったが何分にも、病人はいるし、足弱な女も多く、幼を負い、老を扶け、おまけに家財をたずさえて、車駕担輿など雑然と続いて行く始末なので道はようやく一日に十里(支那里)も進めば関の山という状態であった。
 これには、孔明も困りはてて、遂に対策もないかのように、
「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につつまれたら、ほとんど一人として生きることはできますまい。もうご決断を仰がなければなりません」
 と、眉に悲壮なものをたたえて玄徳にこう迫った。



 落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危ういのに、数万人の窮民をつれ歩いていたのでは、所詮、行動の取りようもない。
「背に腹はかえられません」
 孔明は諭すのであった。玄徳の仁愛な心はよく分っているが、そのため、敵の殲滅に会っては、なんの意味もないことになる。
「ここは一時、涙をのんでも、百姓、老幼の足手まといを振り捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、ついに曹軍の好餌となるしかありますまい」
 というのであった。
 が――玄徳は依然として、
「自分を慕うこと、あたかも子が親を慕うようなあの領民を、なんで捨てて行かれようぞ。国は人をもって本とすという。いま玄徳は国を亡ったが、その本はなお我にありといえる。――民と共に死ぬなら死ぬばかりである」と云ってきかなかった。
 このことばを孔明から伝え聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭いた。
 さらばと、――孔明もついに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾に、兵五百を分けて、
「江夏におられる嫡子劉g君のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会いあるべしと、この書簡をとどけられよ」と、玄徳のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
 さてまた。
 曹操はその中軍を進めて、宛城から樊城へ移っていた。
 入城を終るとすぐ、書を襄陽へ送って、
「劉jに対面しよう」と、申し入れた。
 幼年の劉jは怖ろしがって、「行くのはいやだ」と、云ってきかない。そこで名代として、蔡瑁、張允、文聘の三人が赴くことになったが、その際、劉jへむかって、そっと、すすめたものがある。
「いま曹軍を不意に衝けば、きっと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕りきって油断しておりますから。――そこで、天下は荊州になびきましょう。こんな絶好な機会などというものは、二度とあるものではありません」
 これが蔡瑁の耳に入ったので、調べてみると、王威の進言だと分った。
 蔡瑁は怒って、
「無用な舌を弄して、幼少の君を惑わすもの」
 と、斬罪にしようとしたが蒯越のいさめによって、ようやく事なく済んだ。
 こんな内輪もめがあったのも、過日来、玄徳同情者の裏切りや脱走が続いて以来その後も、藩論区々にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥や党派の対立もからまって、荊州は今や未曾有な動揺をその内部に蔵していたからである。
 しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によって、率いて行こうと考えていた。――で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色諂佞をきわめたものだった。
 曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚に見おろしながら、
「荊州の軍馬、銭糧、兵船の量は、およそどのくらいあるのか」と、たずねた。
 蔡瑁は、答えて、
「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千余艘もあり、金銀兵糧の大半は、江陵城に蓄え、そのほか各地の城にも、約一年余ずつの軍需は常備してあります」
 と、つつむ所もなかった。
 曹操は満足して、
「劉表は存命中、荊州王になりたがっていたが、ついに成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉jは、いつかかならず王位に封じてやるぞ」と、約束した。



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亡流_01

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 渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。
 堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあった。しかしなお、余勢の激流は滔々と岸を洗っている。
 僥倖にも、曹仁、曹洪の二大将は、この大難から辛くもまぬかれて、博陵の渡口まで逃げてきたが、たちまち一彪の軍馬が道を遮断して呼ばわった。
「曹軍の残兵ども、どこへ落ちてゆくつもりだ。燕人張飛がこれに待ち受けているのも知らずに」
 ここでもまた、潰滅をうけて、屍山血河を作った。曹仁の身もすでに危うかったが、許褚が取って返し、張飛と槍を合わし、万死のうちから彼を救った。
 張飛は、大魚を逸したが、
「ああ愉快、久しぶりで胸がすいたぞ。これくらい叩きのめせば、まずよかろう」
 と、兵を収めて江岸をのぼり、かねてしめし合わせてある玄徳や孔明と一手になった。
 そこには劉封、糜芳などが、船をそろえて待っていた。
 玄徳以下の全軍が対岸へ渡り終ったころ、夜は白みかけていた。
 孔明は、命を下して、
「船をみな焼き捨てろ」と、いった。
 そして、無事、樊城へ入った。
 この大敗北は、やがて宛城にいる曹操の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、
「諸葛匹夫、何者ぞ」と、怒髪をたてて罵った。
 すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、新野、白河、樊城など、一挙に屠るべく大行動に移ろうとした時である。帷幕にあった劉曄が切にいさめた。
「丞相の威名と、仁慈は、河北においてこそ、あまねく知られておりますが、――この地方の民心はただ恐れることだけを知って、その仁愛も、丞相を戴く福利も知りません。――故に玄徳は、百姓を手なずけて、北軍を鬼の如く恐れさせ、老幼男女ことごとく民のすべてを引き連れて樊城へ移ってしまいました。――この際、お味方の大軍が、新野、樊城などを踏み荒し、その武威を示せば示すほど、民心はいよいよ丞相を恐れ、北軍を敬遠し、その徳になつくことはありません。――民なければ、いかに領土を奪っても、枯野に花を求めるようなものでしょう。……如かず、ここはぜひご堪忍あって、玄徳に使いをやり、彼の降伏を促すべきではありますまいか。玄徳が降伏せねば、民心のうらみは玄徳にかかりましょう。そして荊州のお手に入るのは目に見えている。すでに荊州の経略が成れば、呉の攻略も易々たるもの。天下統一のご覇業は、ここに完きを見られまする。――何をか、一玄徳の小悪戯に関わって、可惜、貴重な兵馬を損じ、民の離反を求める必要がございましょうか」
 劉曄の献言は大局的で、一時いきり立った曹操にも、大いにうなずかせるところがあった。しかし曹操は、
「それなら一体誰を、玄徳のところへ使いにやるか」
 ということになお考えを残しているふうだった。
 劉曄は一言のもとに、
「それは、徐庶が適任です」と、いった。
 ばかをいえ――といわぬばかりに曹操は劉曄の顔をしり目に見て、
「あれを玄徳のもとへやったら、再び帰ってくるものか」
 と、唇をむすんで、大きく鼻から息をした。
「いやいや、玄徳と徐庶との交情は、天下周知のことですが、それ故に、もし徐庶がご信頼を裏切って、この使いから帰らなかったりなどしたら、天下の物笑いになります。彼以外に、この使いの適任者はありません」
「なるほど、それも一理だな」
 彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼びだして、おごそかに、軍の大命をさずけた。



 徐庶は、命を奉じて、やがて樊城へ使いした。
「なに、曹操の使いとして、徐庶が見えたと」
 玄徳は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎え、
「かかる日に、ご辺と再会しようとは」と嘆じた。
 語りあえば、久濶の情は尽きない。けれど今は敵味方である。徐庶はあらためていった。
「今日、それがしを向けて、あなたに和睦を乞わしめようとする曹操の本志は、和議にあらず、ただ民心の怨嗟を転嫁せんための奸計です。これに乗って、一時の安全をはかろうとすれば、おそらく悔いを百世に残しましょう。不幸、自分はあなたの敵たる陣営に飼われる身となり、今は老母も死してこの世にはありませんが、もしこの使いから帰らなければ、世人はそれがしの節操を疑い、かつ嘲り笑うでしょう。――ぜひもない宿命、ただ今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする」
 と、すぐ暇を告げ、なお帰りがけにもくり返していった。
「逆境また逆境、さだめし今のお立場はご不安でしょう。しかし以前と事ちがい、唯今では、君側の人に、諸葛先生が居られます。かならずあなたの抱く王覇の大業を扶け、やがて今を昔に語る日があることを信じております。それがしは老母も死し、何一つ世のために計ることもできない境遇に置かれていますが、ただひとつ、あなたのご大成を陰ながら念じ、またそれを楽しみにしていましょう。……では、くれぐれもご健勝に」
 徐庶が帰って、曹操に返辞をするまでのあいだに、玄徳は、ふたたび、城を捨て、ほかに安らかな地を求めなければならなかった。
 せっかく誘降の使いをやったのにそれを拒絶したという報告を聞けば、曹操はたちまち、
(民を戦禍に投じたものは玄徳である)
 と、罪を相手になすって百万の軍にぞんぶんな蹂躙を命じ、颱風の如く攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。
「襄陽に避けましょう。この城よりは、まだ襄陽のほうが、防ぐに足ります」
 孔明のすすめに、もちろん、玄徳は異議もなかったが、
「自分を慕って、自分と共に、ここへ避難している無数の百姓たちをどうしよう」
 と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だった。
「君をお慕い申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までとついて来る可憐な百姓どもです。たとえ足手まといになろうと、引き具してお移りあるべきでございましょう」
 孔明のことばに、玄徳も、
「さらば――」と、関羽に渡江の準備を命じた。
 関羽は、江頭に舟をそろえ、さて数万の百姓をあつめて、
「われらと共に、ゆかんとする者は江を渡れ。あとに残ろうと思う者は、去って旧地の田を耕すがいい」と、云い渡した。
 すると、百姓老幼、みな声をそろえて、共に哭いて、
「これから先、たとえ山を拓いて喰い、石を鑿って水を汲むとも、劉皇叔さまに従って参りとうございます。ついに生命を失っても使君(玄徳のこと)をお恨みはいたしません」と、いった。
 そこで関羽は、糜竺、簡雍などと協力して、この膨大なる大家族を、次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。
 玄徳も、舟に移って、渡江しにかかったが、折もあれ、この方面へ襲せてきた曹軍の一手――約五万の兵が、馬けむりをあげて樊城城外から追いかけてきた。
「すわや、敵が」と聞くなり岸に群れ惑う者、舟の中に哭きさけぶ者、あやまって河中に墜ちいる者など、男女老幼の悲鳴は、水に谺して、思わず耳をおおうばかりだった。
「あわれや、無辜の民ぐさ達、我あらばこそ、このような禍いをかける。――我さえなければ」
 と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしていたが、突然、舷に立って、河中に身を投げようとした。



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新野を捨てて_02

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 曹操はなおその総軍司令部を宛城において、情勢を大観していたが、曹仁、曹洪を大将とする先鋒の第一軍十万の兵は、許褚の精兵三千を加えて、その日すでに、新野の郊外まで殺到していた。
 一応、そこで兵馬を休ませたのが、午の頃であった。
 案内者を呼びつけて、
「これから新野まで何里か」と、訊くと、
「三十余里です」と、いう。
「土地の名は」と、いえば、
「鵲尾坡――」と、答えた。
 そのうちに、偵察に行った数十騎が、引返してきていうには、
「これからやや少し先へ行くと、山に拠り、峰に沿って陣を取っている敵があります。われわれの影を見るや、一方の山では、青い旗を打ち振り、一方の峰では、紅の旗をもってそれに答え、呼応の形を示す有様、何やら充分、備えている態がうかがわれます。どうもその兵力のほどは察しきれませんが……」
 許褚は、その報を、受けるやいな、自身、当って見ると称して、手勢三千を率いて、深々と前進してみた。
 鬱蒼とした峰々、岩々たる山やその尾根、地形は複雑で、容易に敵の態を見とどけることができない。しかし、たちまち一つの峰で、颯々と、紅の旗がうごいた。
「あ。あれだな」
 凝視していると、また、後ろの山の肩で、しきりに青い旗を打ち振っているのが見える。何さま信号でも交わしている様子である。許褚は迷った。
 山気は森として、鳴りをしずめている敵の陣容の深さを想わせる。――これはうかつにかかるべきでないと考えたので、許褚は、味方の者に、
「決して手出しするな」と、かたく戒め、ひとり駒を引返して、曹仁に告げ、指令を仰いだ。
 曹仁は一笑に付して、
「きょうの進撃は、このたびの序戦ゆえ、誰も大事を取るであろうが、それにしても、常の貴公らしくもない二の足ではないか。兵に虚実あり、実と見せて虚、虚と見せて実。いま聞く紅旗青旗のことなども、見よがしに、敵の打ち振るのは、すなわち、我をして疑わしめんがためにちがいない。何のためらうことがあろう」と、いった。
 許褚は、ふたたび鵲尾坡から取って返し、兵に下知して、進軍をつづけたが、一人の敵も出てこない。
「今に。……やがて?」と、一歩一歩、敵の伏兵を警戒しながら、緊張をつづけて進んだが、防ぎに出る敵も支えに立つ敵も現れなかった。
 こうなると、張合いのないよりは一層、無気味な気抜けに襲われた。陽はいつか西山に沈み、山ふところは暗く、東の峰の一方が夕月にほの明るかった。
「やっ? ……あの音は」
 三千余騎の跫音がはたと止まったのである。耳を澄まして人々はその明るい天の一方を仰いだ。
 月は見えないが水のように空は澄みきっていた。突兀と聳えている山の絶頂に、ひとりの敵が立って大擂を吹いている。……ぼ――うっ……ぼうううっ……と何を呼ぶのか、大擂の音は長い尾をひいて、陰々と四山にこだましてゆく。
「はてな?」
 怪しんでなおよく見ると、峰の頂上に、やや平らな所があり、そこに一群の旌旗を立て、傘蓋を開いて対座している人影がある。ようやく月ののぼるに従って、その姿はいよいよ明らかに見ることができた。一方は大将玄徳、一方は軍師孔明、相対して、月を賞し、酒を酌んでいるのであった。
「やあ、憎ッくき敵の応対かな。おのれひと揉みに」
 許褚は愚弄されたと感じてひどく怒った。彼の激しい下知に励まされて、兵は狼群の吠えかかるが如く、山の絶壁へ取りすがったが、たちまちその上へ、巨岩大木の雨が幕を切って落すようになだれてきた。



 一塊の大石や、一箇の木材で、幾十か知れない人馬が傷つけられた。
 許褚も、これはたまらないと、あわてて兵を退いた。そして、ほかの攻め口を尋ねた。
 彼方の峰、こなたの山、大擂の音や金鼓のひびきが答え合って聞えるのである。
「背後を断たれては」と、許褚はいたずらに、敵の所在を考え迷った。
 そのうちに曹仁、曹洪などの本軍もこれへ来た。曹仁は叱咤して、
「児戯に類する敵の作戦だ。麻酔にかけられてはならん。前進ただ前進あるのみ」
 と、遮二無二、猛進をつづけ、ついに新野の街まで押し入ってしまった。
「どうだ、この街の態は。これで敵の手のうちは見えたろう」
 曹仁は、自分の達見を誇った。城下にも街にも敵影は見あたらない。のみならず百姓も商家もすべての家はガラ空きである。老幼男女はもとより嬰児の声一つしない死の街だった。
「いかさま、百計尽きて、玄徳と孔明は将士や領民を引きつれて、いち早く逃げのびてしまったものと思われる。――さてさて逃げ足のきれいさよ」と曹洪や許褚も笑った。
「追いかけて、殲滅戦にかかろう」という者もあったが、人馬もつかれているし、宵の兵糧もまだつかっていない。こよいは一宿して、早暁、追撃にかかっても遅くはあるまいと、
「やすめ」の令を、全軍につたえた。
 その頃から風がつのりだして、暗黒の街中は沙塵がひどく舞った。曹仁、曹洪らの首脳は城に入って、帷幕のうちで酒など酌んでいた。
 すると、番の軍卒が、
「火事、火事」
 と、外で騒ぎ立ててきた。部将たちが、杯をおいて、あわてかけるのを、曹仁は押し止めて、
「兵卒どもが、飯を炊ぐ間に、あやまって火を出したのだろう。帷幕であわてなどすると、すぐ全軍に影響する。さわぐに及ばん」と、余裕を示していた。
 ところが、外の騒ぎは、いつまでもやまない。西、北、南の三門はすでにことごとく火の海だという。追々、炎の音、人馬の跫音など、ただならぬものが身近に迫ってきた。
「あっ、敵だっ」
「敵の火攻めだっ」
 部将のさけびに曹洪、曹仁も胆を冷やして、すわとばかり出て見たときは、もう遅かった。
 城中はもうもうと黒煙につつまれている。馬よ、甲よ、矛よ、とうろたえ廻る間にも、煙は眼をふさぎ鼻をつく。
 さらに、火は風をよび、風は火をよび、四方八面、炎と化したかと思うと、城頭にそびえている三層の殿楼やそれにつらなる高閣など、一度に轟然と自爆して、宙天には火の柱を噴き、大地へは火の簾を降らした。
 わあっと、声をあげて、西門へ逃げれば西門も火。南門へ走れば南門も火。こはたまらじと、北門へなだれを打ってゆけば、そこも大地まで燃えさかっている。
「東の門には、火がないぞ」
 誰いうとなく喚きあって、幾万という人馬がわれ勝ちに一方へ押し流れてきた。互いに手脚を踏み折られ、頭上からは火の雨を浴び、焼け死ぬ者、幾千人か知れなかった。
 曹仁、曹洪らは、辛くも火中を脱したが、道に待っていた趙雲にはばまれて、さんざんに打ちのめされ、あわてて後へ戻ると、劉封、糜芳が一軍をひきいて、前を立ちふさいだ。
「これは?」と仰天して、白河のあたりまで逃げ去り、ほっと一息つきながら、馬にも水を飼い、将士も争って、河の水を口へすくいかけていたが、――かねて上流に埋伏していた関羽の一隊は、その時、遠く兵馬のいななきを耳にして、
「今だ!」
 と、孔明の計を奉じて、土嚢の堰を一斉にきった。さながら洪水のような濁浪は、闇夜の底を吠えて、曹軍数万の兵を雑魚のように呑み消した。



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新野を捨てて_01

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 百万の軍旅は、いま河南の宛城(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしていた。
 そこへ、荊州から降参の使いとして、宋忠の一行が着いた。
 宋忠は、宛城の中で、曹操に謁して、降参の書を奉呈した。
「劉jの輔佐には、賢明な臣がたくさんいるとみえる」
 曹操は大満足である。
 こう使いを賞めて、「劉jを忠烈侯に封じて、長く荊州の太守たる保証を与えてやろう。やがてわが軍は、荊州に入るであろうから、その時には、城を出て、曹操の迎えに見えるがいい。――劉jに会って、その折、なお親しく語ることもあろう」と、いった。
 宋忠は、衣服鞍馬を拝領して、首尾よく荊州へ帰って行った。
 その途中である。
 江を渡って、渡船場から上がってくると、一隊の人馬が馳けてきた。
「何者だっ、止れっ」
 と、誰何されて、馬上の将を見ると、この辺の守りをしていた関羽である。
「しまった」
 と思ったが、逃げるにも逃げきれない。宋忠は彼の訊問にありのままを答えるしかなかった。
「何。降参の書をたずさえて、曹操の陣へ使いした帰りだと申すか?」
 関羽は、初耳なので、驚きに打たれた。
「これは、自分だけが、聞き流しにしているわけには参らぬ」
 有無をいわせず、後は、宋忠を引ッさげて、新野へ馳けた。
 新野の内部でも、この政治的な事実は、いま初めて知ったことなので、驚愕はいうまでもない。
 わけて、玄徳は、
「何たることか!」
 と、悲涙にむせんで、昏絶せんばかりだった。
 激しやすい張飛のごときは、
「宋忠の首を刎ねて血祭りとなし、ただちに兵をもって荊州を攻め取ってしまえ。さすれば無言のうちに、曹操へやった降参の書は抹殺され、無効になってしまう」
 と、わめきちらして、いやが上にも、諸人を動揺させた。
 宋忠は生きた心地もなく、おどおどして、城中にみなぎる悲憤の光景をながめていたが、
「今となって、汝の首を刎ねたところで、何の役に立つわけもない。そちは逃げろ」
 と、玄徳は彼をゆるして、城外へ放ってやった。
 ところへ、荊州の幕賓、伊籍がたずねてきた。宋忠を放った後で、玄徳は、孔明そのほかを集めて評議中であったが、ほかならぬ人なのでその席へ招じ、日頃の疎遠を謝した。
 伊籍は、蔡夫人や蔡瑁が、劉gをさしおいて、弟の劉jを国主に立てたことを痛憤して、その鬱懐を、玄徳へ訴えに来たのであった。
「その憂いを抱くものは、あなたばかりでありません」と、玄徳はなだめて後、
「――しかも、まだまだあなたの憂いはかろい。あなたのご存じなのは、それだけであろうが、もっと痛心に耐えないことが起っている」
「何です? これ以上、痛心にたえないこととは」
「故太守が亡くなられて、まだ墳墓の土も乾かないうち、この荊州九郡をそっくり挙げて、曹操へ降参の書を呈したという一事です」
「えっ、ほんとですか」
「偽りはありません」
「それが事実なら、なぜ貴君には、直ちに、喪を弔うと号して、襄陽に行き、あざむいて幼主劉jをこちらへ、奪い取り、蔡瑁、蔡夫人などの奸党閥族を一掃してしまわれないのですか」
 日頃、温厚な伊籍すら、色をなして、玄徳をそう詰問るのであった。



 孔明も共にすすめた。
「伊籍のことばに、私も同意します。今こそご決断の時でしょう」
 しかし玄徳は、ただ涙を垂るるのみで、やがてそれにこう答えた。
「いやいや臨終の折に、あのように孤子の将来を案じて、自分に後を託した劉表のことばを思えば、その信頼に背くようなことはできない」
 孔明は、舌打ちして、
「いまにして、荊州も取り給わず遅疑逡巡、曹操の来攻を、拱手してここに見ているおつもりですか」と、ほとんど、玄徳の戦意を疑うばかりな語気で詰問った。
「ぜひもない……」と、玄徳は独りでそこに考えをきめてしまっているもののように――
「この上は新野を捨てて、樊城へ避けるしかあるまい」と、いった。
 ところへ、早馬が来て、城内へ告げた。曹操の大軍百万の先鋒はすでに博望坡まで迫ってきたというのである。
 伊籍は倉皇と帰ってゆく。城中はすでにただならぬ非常時色に塗りつぶされた。
「とまれ、孔明あるからには、御心をやすんじ給え」
 玄徳をなぐさめて、孔明はただちに、諸将へ指令した。
「まず、防戦の第一着手に、城下の四門に高札をかかげ――百姓商人老幼男女、領下のものことごとく避難にかかれ、領主に従って難を避けよ、遅るる者は曹操のためかならずみなごろしにならん――としるして布令なす事」と、手配の順に従って、なお、次のように云いわたした。
「孫乾は西河の岸に舟をそろえて避難民を渡してやるがよい。糜竺はその百姓たちを導いて、樊城へ入れしめよ。また関羽は千余騎をひきいて、白河上流に埋伏して、土嚢を築いて、流れをせき止めにかかれ」
 孔明は、諸将の顔を見わたしながら、ここでちょっと、ことばを休め、関羽の面にその眸をとどめて云い足した。
「――明日の夜三更の頃、白河の下流にあたって、馬のいななきや兵のさけびの、もの騒がしゅう聞えたときは、すなわち曹軍の潰乱なりと思うがよい。上流にある関羽の手勢は、ただちに土嚢の堰を切って落し、一斉に、激水とともに攻めかかれ。――さらに、張飛は千余騎をひっさげて、白河の渡口に兵を伏せ、関羽と一手になって曹操の中軍を完膚なきまで討ちのめすこと」
 孔明のひとみは、関羽から張飛の面へ移って云いつける。張飛はらんとした眼をかがやかして、大きくそれへうなずく。
「趙雲やある!」
 孔明が、名を呼んだ。
 諸将のあいだから、趙雲は、おうっと答えながら、一歩前へ出た。
「ご辺には、兵三千を授ける」
 孔明はおごそかにいって、
「――乾燥した、柴、蘆、茅など充分に用意されよ。硫黄焔硝をつつみ、新野城の楼上へ積みおくがよい。明日の気象を考えるに、おそらく暮れ方から大風が吹くであろう。勝ちおごった曹操の軍は、風とともに、易々と、陣を城中にうつすは必然である。――時にご辺は、兵を三方にわけて、西門北門南門の三手から、火矢、鉄砲、油礫などを投げかけ、城頭一面火焔と化すとき、一斉に、兵なき東の門へ馳け迫れ。――城内の兵は周章狼狽、ことごとくこの門から逃げあふれて来るであろう。その混乱を存分に討って、よしと見たらすぐ兵を引っ返せ。白河の渡口へきて関羽、張飛の手勢と合すればよい。――そして樊城をさして急ぎに急げ」
 あらましの指令は終った。命をうけた諸将は勇躍して立ち去ったが、なお糜芳、劉封などが残っていた。
「二人には、これを」と孔明は、特に近く呼んで、糜芳へは紅の旗を与え、劉封には青い旗を渡した。いかなる計を授けられたか、その二将もやがておのおの千余騎をしたがえて、――新野をさること約三十里、鵲尾坡の方面へ急いで行った。



posted by takazzo at 10:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 赤壁の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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