2013年12月27日

呉の情熱_02

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 この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のほうが、絶対的な優勢を示していたが、将士共に、
「黄祖の首は、もう掌のうちのもの」
 と、あまりに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移ってから、大敗を招いてしまった。
 もっとも大きな傷手は、孫権の大将凌操という剛勇な将軍が、深入りして、敵の包囲に遭い、黄祖の麾下甘寧の矢にあたって戦死したことだった。
 ために、士気は沮喪し、呉軍は潰走を余儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があった。
 それは将軍凌操の子凌統で、まだ十五歳の年少だったが、父が、乱軍の中に射たおされたと聞くや、ただ一名、敵中へ取って返し、父の屍をたずねて馳せ返ってきた。
 孫権は、いち早く、
「この軍は不利」と、見たので、思いきりよく本国へ引揚げてしまったが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡ったので、
「まるで、凌統を有名にするために、戦いに行ったようなものだ」と、時の人々はいった。
 翌九年の冬。
 孫権の弟、孫翊は、丹陽の太守となって、任地へ赴いた。
 なにしろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だった。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らないことがあると、部下の役人であろうと士卒であろうと、すぐ面罵して鞭打つ癖があった。
「殺ってしまおう」
「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」
 丹陽の都督に、嬀覧という者がある。同じ怨みを抱く郡丞の戴員と、ついにこういう肚を合わせ、ひそかに対手の出入りをうかがっていた。
 しかし、孫翊は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣を佩いて、眼気に隙も見えないため、むなしく機を過していた。
 そこで二人は、一策を構え、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願った。
 すぐ、許しが出たので、嬀覧はひそかに、孫翊の大将辺洪という者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴ということになっている。
 孫翊も、もちろん欠かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
「じゃあ、行ってくるぞ」と、妻の室へ声をかけた。
 彼の妻は、徐氏という。
 呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かった女性である。そして、幼少から易学を好み、卜をよくした。
 この日も、良人の出るまえに、ひとり易を立てていたが、
「どうしたのでしょう。今日に限って、不吉な卦が出ました。なんとか口実をもうけて、ご出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」
 しきりと、ひきとめた。
 けれど孫翊は、
「ばかをいえ、男同士の会合に、そうは行かないよ。ははは」
 気にもかけず出かけてしまった。
 評議から酒宴となって、帰館は夜に入った。大酒家の孫翊は、蹌踉と、門外へ出てきた。かねてしめし合わせていた辺洪は、ふいに躍りかかって、孫翊を一太刀に斬り殺してしまった。
 すると、その辺洪をそそのかした嬀覧、戴員のふたりが、急に驚いた態をして、
「主を害した逆賊め」と、辺洪を捕え、市へ引きだして、首を斬ろうとした。
 辺洪は、仰天して、
「約束がちがう。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」
 と、喚いたが、首は喚いている間に、地へ落ちていた。



 嬀覧の悪は、それだけに止まらない。なお、べつな野望を抱いていたのである。
 一方、孫翊の妻の徐氏は、良人の帰りがおそいので、
「もしや、易に現れたように、何か凶事があったのではないか」
 と、自分の卜が的中しないことを今はしきりに祷っていた。気のせいか、こよいに限って、燈火の色も凶い。
「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」
 ふと、帳を出て、夜の空を仰いでいると、中門のほうから歩廊へかけて、どやどやと一隊の兵が踏みこんできた。
「徐氏か」
 先頭のひとりがいう。
 見ると、刀を横たえた都督嬀覧だった。
 兵をうしろに残して、ずかずかと十歩ばかり進んでくると、
「夫人。あなたの良人孫翊は、こよい部下の辺洪のため、会館の門外で斬り殺された。――が下手人辺洪は、即座にひッ捕えて、市へひきだし首を打ち落して、讐を取った。――この嬀覧があなたに代って仇を打ってあげたのだ」
 恩きせがましく、こういって、
「もう悲しまぬがよい。何事もこれからは、嬀覧がお力になってあげる。この嬀覧にご相談あるがよい」と、腕をとらえて、彼女の室へはいろうとした。
「…………」
 徐氏は一時茫然としていたが、軽く、腕を払って、
「いまは、何も、ご相談を願うこともありません」
「では、また参ろう」
「人の眼もあります。月の末の――晦日にでも」
 徐氏が涙を含まないのみか、むしろ媚すら見える眸に、嬀覧は独りうなずいて、
「よろしい、では、その時に」と、有頂天になって帰った。
 底知れぬ悪党とは、嬀覧のごときをいうのだろう、彼は疾くから徐氏の美貌をうかがって毒牙を磨いていたのである。
 徐氏は、悲嘆のうちに、良人の葬儀を終って、後、ひそかに亡夫の郎党で、孫高、傅嬰という二人の武士を呼んだ。
 そして、哭いていうには、
「わが夫を殺した者は、辺洪ということになっているが、妾は信じません。真の下手人は、都督嬀覧です。卜のうえでいうのではない、証拠のあることです、そなた達へ向って、口にするも恥かしいが、嬀覧は妾に道ならぬ不義をいどみかけている。妻になれと迫るのです。……で、虫をころして、晦日の夜に来るように約束したから、そのときは、妾の声を合図に、躍りかかって、良人の仇を刺して賜も。どうかこの身に力をかして賜もれ」
 忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたたえて、亡君の恨み、誓って晴らさんものと、その夜を待っていた。
 嬀覧は、やって来た。――徐氏は化粧して酒盞を清めていた。
 すこし酔うと、
「妻になれ、否か応か」
 嬀覧は、本性をあらわして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。
 徐氏は、ほほ笑んで、
「あなたのでしょう」と、いった。
「もちろん、俺の妻になれというのにきまっている」
「いいえ、良人の孫翊を殺させた張本人は」
「げっ? な、なんだ」
 徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂いに絶叫した。
「良人の仇っ。――傅嬰よ! 孫高よ! この賊を、斬り伏せておくれっ」
「――応っ」
 と、躍りでた二人の忠僕は、嬀覧のうしろから一太刀ずつあびせかけた。徐氏も奪い取った剣で敵の脾腹を突きとおした。そして初めて、朱の中にうっ伏しながら哭けるだけ哭いていた。



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呉の情熱_01

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 眼を転じて、南方を見よう。
 呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。
 ここ数年を見較べるに――
 曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。
 玄徳のほうは、それに反して、逆境また逆境だったが、隠忍よく生きる道を見つけては、ついに孔明の出廬をうながし、孔明という人材を得た。
 広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いずれが大きく、いずれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
 この間にあって、呉の発展は、あくまで文化的であり、内容の充実にあった。
 何しろ、先主孫策のあとを継いで立った孫権は、まだ若かった。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
 それと、南方は、天産物や交通にめぐまれているので期せずして、人と知識はここに集まった。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活溌な所以である。
 時。――建安の七年頃だった。――すなわち孔明出廬のときよりさかのぼること六年前である。
 美しい一艘の官船が檣頭に許都政府の旗をかかげて、揚子江を下ってきた。
 中央からの使者であった。
 使者の一行は、呉会の賓館にはいって、のち城中に登り、曹操の旨をつたえて、
「まだご幼少にいらせられる由ですが、孫閣下のご長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷においてご教育申しあげ、成人の後は、官人となされたいお心からです。――もちろん帝の有難い思し召も多分にあることで」と、申し入れた。
 ことばの上から見ると非常な光栄のようであるが、いうまでもなく、これは人質を求めているのである。
 呉のほうでも、そこは知れきっていることだが、うやうやしく恩命を謝して、
「いずれ、一門評議のうえ、あらためて」
 と、答えて、問題の延引策を取っていた。
 その後も、度々、長子を上洛せよと、曹操のほうから催促がくる。朝廷を擁しているだけに、彼の命は、すでに彼の命にとどまらない絶対権をおびていた。
「母君。いかがしたものでしょう」
 孫権はついに、老母の呉夫人の耳へも入れた。
 呉夫人は、
「あなたにはもう良い臣下がたくさんあるはずです。なぜこんな時こそ、諸方の臣を招いて衆智に訊いてみないのか」と云った。
 考えてみると、問題は、子ども一人のことではない。質子を拒めば、当然、曹操とは敵国になる。
 そこで、呉会の賓館に、大会議をひらいた。
 当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まったといっていい。
 張昭、張絋、周瑜、魯粛などの宿将をはじめとして、
 彭城の曼才、会稽の徳潤、沛県の敬文、汝南の徳枢、呉郡の休穆、また公紀、烏亭の孔休など。
 かの水鏡先生が、孔明と並び称して――伏龍、鳳雛といった――その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えている。
 そのほか、汝陽の呂蒙とか、呉郡の陸遜とか、瑯琊の徐盛とか――実に人材雲のごとしで、呉の旺なことも、故なきではないと思わせられた。
「いま曹操が、呉に人質を求めてきたのは、諸侯の例によるものである。質子を出すは、曹操に服従を誓うものであり、それを拒むことは、即敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至った。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚なくご意見を吐露していただきたい」
 張昭が議長格として、まず席を起ち、全員へこう発言を求めた。



 こもごもに起って、各自が、説くところ論じるところ、種々である。
 質子、送るべし。
 となす者。
 質子、送るべからず。
 と、主張する者。
 ようやく、会議は、二派にわかれ、討論果てしなく見えたが、
「周瑜に一言させて下さい」と、初めて彼が発言を求めた。
 呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策と同い年であったから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であった。
「そうだ、周瑜のことばを聞いてみよう。説きたまえ」
 人々は、しばらく彼に耳をかした。
 周瑜は、起立していう。
「僭越ですが、私は、楚国の始めを憶いおこします。楚ははじめ、荊山のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々たるものでしたが、賢能の士が集まって、ついに九百余年の基をひらきました。――いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、ここに三代、地は六郡の衆を兼ね、兵は精にし、粮は豊山を鋳て銅となし、海を煮て塩となす。民乱を思わず、武士は勁勇、むかうところ敵なしです」
「…………」
 彼の演舌を聞くのは初めての人々もあったらしく、多くは、その爽やかな弁と明白な理論に、意外な面持を見せていた。
「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風に媚びる必要がありましょう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれれば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るときは、相府に身をかがめ、位階は一侯を出ず、車数乗、馬幾匹定め以上の儀装もできません。いわんや、南面して、天下の覇業を行わんなど、思いもよらぬ夢でしょう。――まずここは、あくまで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見ている秋ではないでしょうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらわし、朝廷に忠なる宰相でないようなら、その時こそ、呉は天の時を計って、大いに為すある大理想をもたねばなりますまい」
「……然り矣」
「そうだ。その時だ」
 述べおわって、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合ったまま、粛としていた。
 意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになっていた。
 この日、簾中に、会議のもようを聴いていた呉夫人も、甥の周瑜の器量をたのもしく思って、後に、近く彼を招き、
「おまえは、孫策と同年で、一月おそく生れたばかりだから、わが子のように思われる。これからも、よく孫権を扶けて賜も」と、ねんごろなことばであった。
 かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのままになってしまった。が中央の威権は、いたく傷つけられたわけである。
 曹操も、以来、使いを下してこなかった。――或る重大決意を、呉に対して抱いたであろうことは想像に難くない。
 宣戦せざる宣戦――無言の国交断絶状態にはいった。
 が、長江の水だけは、千里を通じている。
 そのうちに。
 建安八年の十一月ごろ。
 孫権は、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖を攻めるためだった。
 兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。
 その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であった。



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出廬_02

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 至誠は人をうごかさずにおかない。玄徳は天下の為に泣くのであった。その涙は一箇のためや、小さい私情に流したものではない。
「…………」
 孔明は、沈思しているふうだったが、やがて唇を開くと、静かに、しかし力づよい語韻でいった。
「いや、お心のほどよく分りました。もし長くお見捨てなくば、不肖ながら、犬馬の労をとって、共に微力を国事に尽しましょう」
 聞くと、玄徳は、
「えっ。では、それがしの聘に応じて、ご出廬くださいますか」
「何かのご縁でしょう。将軍は私にめぐり会うべく諸州をさまよい、私は将軍のお招きを辱のうすべく今日まで田野の廬にかくれて陽の目を待っていたのかも知れません」
「余りにうれしくて、何やら夢のような心地がする」
 玄徳は、関羽と張飛を呼んで仔細を語り、また供に持たせてきた金帛の礼物を、
「主従かための印ばかりに」と、孔明へ贈った。
 孔明は辞して受けなかったが、大賢を聘すには礼儀もある。自分の志ばかりの物だからといわれて、
「では、有難く頂きましょう」
 と、家弟の諸葛均にそれをおさめさせた。
 孔明は、それと共に、弟の均へ、こう云いふくめた。
「たいして才能もないこの身に対して、劉皇叔には、三顧の礼をつくし、かつ、過分な至嘱をもって、自分を聘せられた。性来の懦夫も起たざるを得ぬではないか。――兄はただ今より即ち皇叔に附随して新野の城へゆくであろう。汝は、嫂をいつくしみ、草廬をまもって、天の時をたのしむがよい。――もし幸いに、功成り名をとげる日もあれば、兄もまたここへ帰ってくるであろう」
「はい。……その日の来るのを楽しみに、留守をしております」
 均は、つつしんで、兄の旨を領諾した。
 その夜、玄徳は、ここに一泊し、翌る日、駒を並べて、草庵を立った。
 かくて岡を降ってくると――前の夜にこの趣を供の者が新野に告げに行ったとみえて、――迎えの車が村まできていた。
 玄徳は孔明とひとつ車に乗り、新野の城内へ帰る途中も、親しげに語り合っていた。
 このとき孔明は二十七歳、劉備玄徳は四十七であった。
 新野に帰ってからも、ふたりは寝るにも、室を共にし、食事をするにも、卓をべつにしたことがない。
 昼夜、天下を論じ、人物を評し、史を按じ、令を工夫していた。
 孔明が、新野の兵力をみると、わずか数千の兵しかない。財力もきわめて乏しい。そこで劉備にすすめた。
「荊州は、人口が少ないのでなく、実は戸籍にのっている人間が少ないのです。ですから、劉表にすすめて、戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れて、非常の際は、すぐ兵籍に加え得るようにしなければいけません」といった。
 また自分が、保券の証人となって、南陽の富豪大姓黽氏から、銭千万貫を借りうけ、これをひそかに劉備の軍資金にまわして、その内容を強化した。
 とまれ、孔明の家がらというものは、その叔父だった人といい、また現在呉に仕えている長兄の諸葛瑾といい、彼の妻黄氏の実家といい、当時の名門にちがいなかった。しかも、孔明の誠実と真摯な人格だけは、誰にも認められていたので――彼を帷幕に加えた玄徳は――同時に彼のこの大きな背景と、他方重い信用をも、あわせて味方にしたわけである。
 遠大なる「天下三分の計」なるものは、もちろん玄徳と孔明のふたりだけが胸に秘している大策で、当初はおもむろに、こうしてその内容の充実をはかりながら、北支・中支のうごき、また、江西・江南の時の流れを、きわめて慎重にながめていたのであった。



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