2013年12月09日

霹靂車_03

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 真夜中に、西北の空が、真っ赤に焦けだしたので、袁紹は陣外に立ち、
「何事だろう?」と、疑っていた。
 そこへ韓猛の部下がぞくぞく逃げ返ってきて、
「兵糧を焼かれました」と告げたから袁紹は落胆もしたし、韓猛の敗退を、
「腑がいなき奴」と憤った。
「張郃やある! 高覧も来れ」
 彼は、俄に呼んで、その二将に精兵をさずけ、兵糧隊を奇襲した敵の退路をたって殲滅しろと命じた。
「心得ました。味方の損害は莫大のようですが、同時に、兵糧を焼いた敵のやつらも、一匹も生かして返すことではありません」
 二大将は手分けして、大道をひた押しに駈け、見事、敵路を先に取った。
 徐晃は使命を果たして、意気揚々と、このところへさしかかって来た。
 待ちかまえていた高覧、張郃の二将は、
「賊は小勢だぞ。みなごろしにしてしまえ」
 と、無造作に包囲して、馬を深く敵中へ馳け入れ、
「徐晃は汝か」と、彼のすがたを探しあてるやいな、挟み撃ちにおめきかかっていた。
 ところが。
 背後の部下はたちまち蜘蛛の子みたいに逃げ散った。怪しみながら両将も逃げだすと、何ぞ計らん敵には堂々たる後詰がひかえていたのである。
 すなわち一軍は許褚、一軍は張遼、あわせて五千余騎が、いちどに喊声をあげて、逃げる兵を虱つぶしに殲滅しているではないか。
 高覧は仰天して、
「これは及ばん」と、戦わずして逃げ去り、張郃も、
「むだに命は捨てられん」とばかり、逃げ鞭たたいて逸走してしまった。
 徐晃は、後詰の張遼、許褚と合流して、悠々、官渡の下流をこえて陣地へ帰ったが、曹操が功をたたえると、
「いやご過賞です。せっかくご使命を買って出ながら、功は半ばしか成りませんでした」
 といって自ら恥じた。
「なぜ恥じるか」と、曹操が訊くと、
「でも、敵の兵糧を焼いて帰ってきただけでは味方の腹はくちくなりませんから」と、答えた。
「ぜひもない。そこまでは慾が張りすぎよう」
 曹操が慰めたので、諸将はみな苦笑したが、まったくこの戦果によっては、少しも兵糧の窮乏は解決されなかった。
 しかし、これを袁紹のほうに比較すると、士気をあげただけでも、やはり充分に、徐晃の功は大きかったといっていい。
 袁紹は、期待していた兵糧の莫大な量をむなしく焼き払われたので、
「韓猛の首を陣門に曝させい」と、赫怒して命じたが、諸将があわれんで、しきりに命乞いしたため、将官の任を解いて、一兵卒に下してしまった。
 この難に遭ってから審配は、
「烏巣(河北省)の守りこそは実に大事です。敵の飢餓してくるほど、そこの危険は増しましょう」
 と、大いに袁紹へ注意するところがあった。
 烏巣、鄴都の地には、河北軍の生命をつなぐ穀倉がある。いわれてみるとなおさら袁紹は心安からぬ気がしてきたので、審配をそこへ派遣して、兵糧の点検を命じ、同時に淳于瓊を大将として、およそ二万余騎を、穀倉守備軍として急派した。
 この淳于瓊というのは、生来の大酒家で、躁狂広言のくせがある人物だったから、その下に部将としてついて行った呂威、韓筥子、眭元などは、
「また失態をやりださねばよいが」と、内心不安を抱いていた。
 けれど烏巣そのものの地は天嶮の要害であった。それに安心したか、果たして、淳于瓊は毎日、部下をあつめて飲んでばかりいた。



 ここに、袁紹の軍のうちに、許攸という一将校がいた。年はもう相当な年配だが、掘子軍の一組頭だったり、平常は中隊長格ぐらいで、戦功もあがらず、不遇なほうであった。
 この許攸が、不遇な原因は、ほかにもあった。
 彼は曹操と同郷の生れだから、あまり重用すると、危険だとみられていたのである。
 酒を飲んだ時か何かの折に、彼自身の口から、
「おれは、子供の頃から、曹操とはよく知っている。いったい、あの男は、郷里にいた時分は、毎日、女を射当てに、狩猟には出る、衣装を誇って、村の酒屋は飲みつぶして歩くといったふうで、まあ、不良少年の大将みたいなものだったのさ。おれもまた、その手下でね、ずいぶん乱暴をしたものだ」
 などと、自慢半分にしゃべったことが祟りとなって、つねに部内から白眼視されていた。
 ところが、その許攸が、偶然、一つの功を拾った。
 偵察に出て、小隊と共に、遠く歩いているうち、うさん臭い男を一名捕まえたのである。
 拷問してみると、計らずも大ものであった。
 さきに曹操から都の荀ケへあてて書簡を出していたが、以後、いまもって、荀ケから吉報もなし、兵糧も送られてこないので、全軍餓死に迫る――の急を報じて、彼の迅速な手配を求めている重要な書簡を襟に縫いこんでいたのである。
「折入ってお願いがあります。わたくしに騎馬五千の引率をおゆるし下さい」
 許攸は、ここぞ日頃の疑いをはらし、また自分の不遇から脱する機会と、直接、袁紹を拝してそう熱願した。
 もちろん証拠の一書も見せ、生擒った密使の口書きもつぶさに示しての上である。
「どうする。五千の兵を汝に持たせたら」
「間道の難所をこえ、敵の中核たる許都の府へ、一気に攻め入ります」
「ばかな。そんなことが易々として成就するものなら、わしをはじめ上将一同、かく辛労はせん」
「いや、かならず成就してお見せします。なんとなれば、荀ケが急に兵糧を送れないのは、その兵糧の守備として、同時に大部隊をつけなければならないからです。しかし、早晩その運輸は実行しなければ、曹操をはじめとして、前線の将士は飢餓に瀕しましょう。――わたくしが思うには、もうその輸送大部隊は、都を出ている気がします。さすれば、洛内の手薄たることや必せりでありましょう」
「そちは上将の智を軽んじおるな。左様なことは、誰でも考えるが、一を知って二を知らぬものだ。――もしこの書簡が偽状であったらどうするか」
「断じて、偽筆ではありません。わたくしは曹操の筆蹟は、若い時から見ているので」
 彼の熱意は容易に聞き届けられなかったが、さりとて、思いとどまる気色もなく、なお懇願をつづけていた。
 袁紹は途中で、席を立ってしまった。審配から使いがきたからである。すると、その間に、侍臣がそっと彼に耳打ちした。
「許攸の言はめったにお用いになってはいけません。下将の分際で、嘆願に出るなど、僭越の沙汰です。のみならず、あの男は、冀州にいた頃も、常に行いがよろしくなく、百姓をおどして、年貢の賄賂をせしめたり、金銀を借りては酒色に惑溺したり、鼻つまみに忌まれているような男ですから」
「……ふム、ふム。わかっとる、わかっとる」
 袁紹は二度目に出てくると、穢いものを見るような眼で、許攸を見やって、
「まだいたのか、退がれ。いつまでおっても同じことじゃ」と、叱りとばした。
 許攸は、むっとした面持で、外へ出て行った。そしてひとり憤懣の余り、剣を抜いて、自分の首を自分の手で刎ねようとしたが、
「豎子、われを用いず。いまに後悔するから見ていろ。――そうだ、見せてやろう、おれが自刃する理由は何もない」
 急に、思い直すと、彼はこそこそと塹壕のうちにかくれた。そしてその夜、わずか五、六人の手兵とともに、暗にまぎれて、官渡の浅瀬を渡り、一散に敵の陣地へ駈けこんで行った。



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霹靂車_02

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 元来この官渡の地勢は、河南北方における唯一の要害たる条件を自ら備えていた。
 うしろには大山がそびえ、その麓をめぐる三十余里の官渡の流れは、自然の濠をなしている。曹操は、その水流一帯に、逆茂木を張りめぐらし、大山の嶮に拠って固く守りを改めていた。
 両軍はこの流れをさし挟んで対陣となった。地勢の按配と双方の力の伯仲しているこの軍は、ちょうどわが朝の川中島における武田上杉の対戦に似ているといってもよい。
「いかに、河北の軍勢でも、これでは近づき得まい」
 と、曹軍はその陣容を誇るかのようだった。
 さすがの袁紹も、果たして、
「力攻めは愚だ」と、さとったらしく、ここ数日は矢一つ放たなかった。
 ところが、一夜のうちに、官渡の北岸に、山ができていた。そも、袁紹は何を考えだしたか、二十万の兵に工具を担わせて、人工の山を築かせたのである。十日も経つと、完全な丘になった。
「これは?」と知った曹操のほうでは、陣所陣所から手をかざして、なにか評議をこらしていたが、ついに施す策もなかった。
「……やあ、こんどはあの築山の上に、幾つも高櫓を組み立てているぞ」
「なるほど、仰山なことをやりおる、どうする気だろう?」
 その解答は、まもなく袁紹のほうから、実行で示してきた。
 細長い丘の上に、五十座の櫓を何ヵ所も構築して、それが出来あがると、一櫓に五十張りの弩弓手がたて籠り、いっせいに矢石を撃ち出してきたのである。
 これには曹操も閉口して、前線すべて山麓の陰へ退却してしまうしかなかった。
「渡河の用意!」
 当然、袁紹の作戦は次の行動を開始していた。夜な夜な河中の逆茂木を伐りのぞき、やがて味方の掩護射撃のもとに敵前上陸へかかろうものと機をうかがっていた。
 曹操も、内心、恐れを覚えてきたらしい。
「官渡の守りも、この流れあればこそだが? ……」
 すると幕僚の劉曄が、
「まず敵の築丘や櫓をさきに粉砕してしまわなければ味方はどうにも働くことができません。それには発石車を製して虱つぶしに打ち砕くがよいでしょう」と献策した。
「発石車とは何か」
「それがしの領土に住む、名もない老鍛冶屋が発明したもので、硝薬を用い、大石を筒にこめて、飛爆させるものであります」と、図に描いてみせた。
 曹操はよろこんで、直ちに、その無名の老鍛冶屋を奉行にとりたて、鍛冶、木工、石屋、硝石作りなど、数千人の工人を督励して、図のように発石車を数百輛作らせた。
 まさに科学戦である――近代兵器のそれとは比較にならないがその精神や戦法は、たしかにそこを目ざして飛躍している。
 車砲は口をそろえて烈火を吐いた。大石は虚空にうなり、河をこえて、人工の丘に、無数の土けむりをあげ、また、敵の櫓をみな木っぱ微塵に爆破してしまった。
「何だろう。あの器械は」
 敵はもとより、味方のものまで目に見た科学の威力に、ひとしく畏怖した。
「霹靂車だ……。あれは西方の海洋から渡ってきた夷蛮の霹靂車という火器だ」
 物識りらしくいう者があって、いつかそのまま霹靂車とよびならわされた。
 それはともかく。河北軍はまた新しい一戦法を案出して、曹操を脅かした。



 掘子軍というものを編成したのである。
 これは土龍のように、地の底を掘りぬいて、地下道をすすみ敵前へ攻め出るという戦法である。河北軍が得意とするものとみえて、さきに北平城の公孫瓚を攻め陥した時も、この奇法で城内へ入りこみ、放火隊の飛躍となって、首尾よく功を奏した前例がある。
 こんどの場合は、城壁とちがい、官渡の流れが両軍のあいだにあるが、水深は浅い。深く掘りすすめば至難ではなかろう。
 こう審配が献策したので、
「よかろう」と、袁紹は直ちに実行させたのである。二万余の土龍は、またたくうちに、一すじの地道を対岸の彼方まで掘りのばして行った。
 曹操は早くもそれを察していた。なぜならば、坑の口から外へだした土の山が、蟻地獄のように、敵陣の諸所に盛られ始めたからである。
「どうしたら防げるか」
 彼はまた、劉曄にたずねた。
 劉曄は笑って、
「あの策はもう古いです。これを防ぐには、味方の陣地の前に、横へ長い壕を掘切っておけばいい。――またその壕へ、官渡の水を引きこんでおけば更に妙でしょう」と、いった。
「なるほど」
 苦もなく防禦線はできた。
 物見によって、それと知った袁紹は、あわてて掘子軍の作業を中止させた。
 こんなふうに、対戦はいたずらに延び、八月、九月も過ぎた。
 輸送力に比して、大軍を擁しているため、長期となると、かならず双方とも苦しみだすのは、兵糧であった。
 曹操は、そのため、幾度か官渡をすてて、一度都へ引揚げようかと考えたほどだったが、ともあれ、荀ケの意見をたずねてみようと、都へ使いを立てたりしていた。
 すると、徐晃の部下の史渙という者が、その日、一名の敵を捕虜としてきた。
 徐晃が、この捕虜を手なずけて、いろいろ問いただしてみると、
「袁紹の陣でも、実は、兵糧の窮乏に困りかけています。けれど、近頃、韓猛というものが奉行となって、各地から穀物、糧米なんどおびただしく寄せてきました。てまえは、その兵糧を前線へ運び入れる道案内のために行く途中を、運悪く足の裏に刃物を踏んで落伍してしまったのです」
 と、嘘でもなさそうな自白であった。
 で――徐晃はさっそく、その趣を、曹操へ報告した。曹操は、聞くと手を打って、
「その兵糧こそ、天が我軍へ送ってくれたようなものだ。韓猛という男は、ちょっと強いが、神経のあらい男で、すぐ敵を軽んじるふうのある部将だ。……誰か行って、その兵糧を奪ってくるものはないか」
「誰彼と仰せあるより、それがしが史渙を連れて行ってきましょう」
 徐晃は、その役を買って出た。
 壮なりとして、曹操はゆるしたけれど、敵地に深く入りこむことなので、徐晃の先手二千人のあとへ、さらに、張遼と許褚の二将に五千余騎を授けて立たせた。
 その夜。
 河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加えて、山間の道を蜿蜒と進んできたが、突然、四山の谷間から、鬨の声が起ったので、
「さては?」と、急に防戦のそなえをしたが、足場はわるし道は暗いし、牛馬は暴れだすし、まだ敵を見ぬうちから大混乱を起していた。
 徐晃の奇襲隊は、用意の硫黄や焔硝を投げつけ、敵の糧車へ、八方から火をつけた。
 火牛は吠え、火馬は躍り、真っ赤な谷底に、人間は戦い合っていた。



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霹靂車_01

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 呉を興した英主孫策を失って、呉は一たん喪色の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。
 国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになった。
 これは諸葛瑾の献策で、瑾は長く河北にいたので袁紹の帷幕内輪もめをよく知っていたからである。
 しばらく曹操にしたがうと見せ、時節がきたら曹操を討つ!
 それが方針の根底だった。
 そうきまったので、河北から使者にきて長逗留していた陳震はなんら得るところなく、追い返されてしまった。
 一方、曹操のほうでも。
 呉の孫策死す! ――という大きな衝動をうけて、にわかに評議をひらき、曹操はその席で、
「天の与えた好機だ。ただちに大軍を下江させて、呉を伐ち取らんか」
 と提議したが、折ふし都へ来ていた侍御史張紘がそれを諫めて、
「人の喪に乗じて、軍を興すなどとは、丞相にも似あわしからぬことでしょう。古の道にも、聞いた例がありません」といったので、曹操もその卑劣をふかく恥じたとみえ、以後、それを口にしないばかりでなく、上使を呉へ送って後継者の孫権に恩命をつたえた。
 すなわち孫権を討虜将軍、会稽の太守に封じ、また張紘には、会稽の都尉を与えて帰らせた。
 彼の選んだ方針と、呉がきめていた国策とは、その永続性はともかく孫策の死後においては、端なくも一致した。
 ――だが、おさまらないのは、河北の袁紹であった。
 使者は追い返され、呉はすすんで曹操に媚び、曹操はまた、呉の孫権に、叙爵昇官の斡旋をとって、両国提携の実を見せつけたのであるから、孤立河北軍の焦躁や思うべしであった。
「まず、曹操を打倒せよ」
 令に依って。
 冀州、青州、并州、幽州、など河北の大軍五十万は官渡(河南省・開封附近)の戦場へ殺到した。
 袁紹も、曠のいでたちを着飾って、冀北城からいざ出陣と馬をひかせると、重臣の田豊が、
「かくの如く、内を虚にして、みだりにお逸りあっては、かならず大禍を招きます。むしろ官渡の兵を退かせ、防備をなさるこそ、最善の策と存じますが」と、極力その不利を説いた。
 かたわらにいた逢紀は、日頃から田豊とは犬猿の間がらなので、この時とばかり、
「出陣にあたって不吉なことをいわれる。田豊には、主君の敗北を期しているとみえるな。何を根拠に、大禍に会わんなどと、この際断言されるか」と、ことさら、大仰に咎めだてした。
 出陣の日は、わずかなことも吉凶を占って、気にかけるものである。不吉な言をなしたというのは大罪に値する。まして重臣たるものがである。
 袁紹も怒って、田豊を血祭りにせんと猛ったが、諸人が哀号して、助命を乞うので、
「――首枷をかけて獄中にほうりこんでおけ。凱旋ののちきっと罪を正すであろう」
 と云い払って出陣した。
 ところが途中、陽武(河南省・原陽附近)まで進むと、また沮授がきて諫言を呈した。
「曹操は速戦即決をねらっています。後の整備や兵糧が乏しいためです。しかるに、その図に乗って急激にこの大軍で当られるのは心得ません。味方は大軍ですが、その勇猛と意気にかけてはとても彼に及ぶものではないに」
「だまれ。汝もまた、田豊をまねて、みだりに不吉の言を吐くか」
 袁紹は、彼の首にも首枷をかけて、獄へほうってしまった。
 かくて、官渡の山野、四方九十里にわたって、河北の軍勢七十余万、陣を布いて曹操に対峙した。



 この日、馬煙は天をおおい、両軍の旗鼓は地を埋めた。なにやら燦々と群星の飛ぶような光を、濛々のうちに見るのだった。
 午。陽はまさに高し。
 折から、三通の金鼓が、袁紹の陣地からながれた。
 見れば、大将軍袁紹が、門旗をひらいて馬をすすめてくる。黄金の盔に錦袍銀帯を鎧い、春蘭と呼ぶ牝馬の名駿に螺鈿の鞍をおき、さすがに河北第一の名門たる風采堂々たるものを示しながら、
「曹操に一言申さん」と、陣頭に出た。
 西軍の鉄壁陣は、許褚、張遼、徐晃、李典、楽進、于禁などの諸大隊をつらねて、あたかも人馬の長城を形成している。――その真ん中をぱっと割って、
「曹操これにあり、めずらしや河北の袁紹なるか」と、乗りだしてきたもの、いうまでもなく、いま天下の動向この人より起るとみられている曹操である。
 曹操はまずいった。
「予、さきに、天子に奏して、汝を冀北大将軍に封じ、よく河北の治安を申しつけあるに、みずから、叛乱の兵をうごかすは、そも、何事か」
 彼が敵に与える宣言はいつもこの筆法である。袁紹は当然面を朱に怒った。
「ひかえろ曹操。天子のみことのりを私して、みだりに朝威をかさに振舞うもの、すなわち廟堂の鼠賊、天下のゆるさざる逆臣である。われ、いやしくも、遠祖累代、漢室第一の直臣たり。天に代って、汝がごとき逆賊を討たでやあるべき。またこれ、万民の望む総意である」
 宣言の上では、誰が聞いても、袁紹のほうがすぐれている。
 だから曹操はすぐ、
「問答無用」と、駒を返して、「――張遼、出でよ」と、高く鞭を振った。
 弩弓、鉄砲など、いちどに鳴りとどろく、飛箭のあいだに、
「見参!」
 と、張遼は馳けすすんできて、袁紹へ迫ろうとしたが、袁紹のうしろから突として、
「罰当りめ。ひかえろ」
 と、叱りながら、河北の勇将張郃がおどり出して、敢然、戟をまじえた。
 二者、火をちらして激闘すること五十余合、それでも勝負がつかない。
 曹操は、遠くにあって、驚きの目をみはりながら、
「そも、あの化け物はなんだ」と、つぶやいた。
 差し控えていた許褚は、こらえかねて大薙刀を舞わし、奮然、突進して行った。河北軍からは、それと見て、
「われ高覧なるを知らずや」と、槍をひねって向ってくる。
 ――その時、将台の上に立って、軍の大勢をながめていた袁紹方の宿将審配は、いま曹軍の陣から、約三千ずつ二手にわかれて、味方の側面から挟撃してくるのを見て、
「それっ、合図を」と、軍配も折れよと振った。
 かかることもあろうかと、かねて隠しておいた弩弓隊や鉄砲隊の埋伏の計が、果然、図にあたったのである。
 天地も裂くばかりな轟音となって、矢石鉄丸を雨あられと敵の出足へ浴びせかけた。側面攻撃に出た曹軍の夏侯惇、曹洪の両大将は、急に、軍を転回するいとまもなく、さんざんに討ちなされて潰乱また潰乱の惨を呈した。
「いまぞ追いくずせ」
 袁紹は、勝った。まさにこの日の戦は、河北軍の大捷であり、それにひきかえ、曹操の軍は、官渡の流れを渡って、悲壮なる退陣をするうちに、日ははや暮れていたのであった。



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孫権立つ_03

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 その家の門をくぐれば、その家の主人の嗜みや家風は自ら分るものという。
 周瑜は、門の内へはいって、まず主人魯粛の為人をすぐ想像していた。
 門を通ってもとがめる者なく、内は広く、そして平和だった。あくまでこの地方の大百姓といった構えである。どこやらで牛が啼いている。振向くと村童が二、三人、納屋の横で水牛と寝ころんで嘻々と戯れている。
「ご主人はおいでかね」
 近づいて、周瑜が問うと、村童たちは、彼の姿をじろじろと見まわしていたが、
「いるよ、あっちに」と、木の間の奥を指さした。
 見るとなるほど、田舎びた母屋とはかけ離れて一棟の書堂が見える。周瑜は童子たちに、
「ありがとう」と、愛想をいって、そこへ向う、疎林の小径を歩いて行った。
 すると、立派な風采をした武人が供を連れて、鷹揚に歩いてきた。魯粛の訪客だなと思ったので、すこし道をかわしていると、客は周瑜に会釈もせず、威張って通りすぎた。
 周瑜は気にもかけなかった。そのまま書堂の前まで来ると、ここには今、柴門をひらいて、客を見送ったばかりの主がちょうどまだそこにたたずんでいた。
「失礼ですが、あなたは当家のお主魯粛どのではありませんか」
 周瑜がいんぎんに問うと、魯粛は豊かな眼をそそいで、
「いかにも、てまえは魯粛ですが、してあなたは」
「呉城の当主、孫権のお旨をうけて、突然お邪魔に参ったもの。すなわち巴丘の周瑜ですが」
「えっ、あなたが瑜君ですか」
 魯粛は非常におどろいた。巴丘の周瑜といえば知らぬ者はなかったのである。
「ともあれ、どうぞ……」と、書堂に請じて、来意をたずねた。
 うわさにたがわぬ魯粛の人品に、内心すっかり感悦していた周瑜は、辞を低うしてこう説いた。
「今日の大事は、もちろん将来にあります。将来を慮かるとき、君たる者はその臣を選ばねばならず、臣たらんとする者も、その君を選ぶことが、実に生涯の大事だろうと存ぜられる。――それがしは夙にあなたの名を慕っていたが、お目にかかる折もなかったところ、ご承知のとおり呉の先主孫策のあとを継がれて、まだお若い孫権が当主に立たれた。こう申しては、我田引水とお聞きかも知れぬが、主人孫権はまれに見る英邁篤実のお方で、よく先哲の秘説をさぐり、賢者を尊び、有能の士を求めること、実に切なるものがある」
 と、まえおきして、
「どうです、呉に仕えませんか。あなたも一箇の書堂におさまって文人的な閑日に甘んじたり、終生、大百姓でいいとしているわけでもありますまい。世が泰平ならば、或いはそれも結構ですが、天下の時流はあなたのような有能の士を、こんな田舎におくことは許しません。――巣湖の鄭宝に仕えるくらいなら……あえてそれがしは云いきります。あなたは、呉に仕えるべきであると」
 周瑜は力弁した。
 魯粛はにこやかにうなずいて、
「いまここから帰って行った客と、お会いでしたろう」
「お見かけしました。やはりあなたを引き出しにきた劉子揚でしょう」
「そうです。再三再四、これへ参って鄭宝へ仕官せよと、根気よくすすめてくれるのですが」
「あなたの意はうごきますまい。良禽は樹をえらぶ。――当然です。それがしとともに呉にきてください」
「……?」
「おいやですか」と、切りこむと、
「いや、待って下さい」
 と、魯粛はふいに立つと、客をそこへのこして、ひとり母屋のほうへ行ってしまった。



「失礼しました――」と魯粛はまもなく戻ってきて、
「自分には一人の老母がおるものですから、老母の意向もたずねてきたわけです。ところが老母もそれがしの考えと同様に、呉に仕えるがよかろうと、歓んでくれましたから、早速お招きに応じることにしましょう」と、快諾の旨を答えた。
 周瑜はこおどりして、
「これでわが三江の陣営は精彩を一新する」
 と、直ちに駒を並べて、呉郡に帰り、魯粛をみちびいて、主君孫権にまみえさせた。
 彼を迎えて、孫権がいかに心強く思ったかはいうまでもない。以来、喪室の感傷を一擲して、政務を見、軍事にも熱心に、明け暮れ魯粛の卓見をたたいた。
 ある日は、ただ二人酒を飲んで、臥すにも床を一つにしながら夜半また燭をかかげて、国事を談じたりなどしていた。
「御身は漢室の現状をどう思う? また、わが将来の備えは?」
 若い孫権の眸はかがやく。
 魯粛は答えていう。
「おそらく漢朝の隆盛はもう過去のものでしょう。かえって寄生木たる曹操のほうが次第に老いたる親木を蝕い、幹を太らせ、ついに根を漢土に張って、繁茂してくること必然でしょう。――それに対して、わが君は静かに時運をながめ、江東の要害を固うして、河北の袁紹と、鼎足の形をなし、おもむろに天下の隙をうかがっておられるのが上策です。一朝、時来れば黄祖を平げ、荊州の劉表を征伐し、一挙に遡江の態勢を拡大して行く。曹操はつねに河北の攻防に暇なく、呉の進出を妨げることはできません」
「漢室が衰えたあと、朝廟はどうなるであろう」
「ふたたび、漢の高祖のごとき人物が現れ、帝王の業が始りましょう。歴史はくり返されるものです。この秋に生れ、地の利と人の和を擁し、呉三江を継がれたわが君は、よくよくご自重なさらねばなりますまい」
 孫権はじっと聞いていた。彼の耳朶は紅かった。
 その後、数日の暇を乞うて、魯粛が田舎の母に会いに行く時、孫権は、彼の老母へといって、衣服や帷帳を贈った。
 魯粛はその恩に感じ、やがて帰府するとき、さらにひとりの人物を伴ってきて、孫権に推薦した。
 この人は、漢人にはめずらしい二字姓をもっていたから、誰でもその家門を知っていた。
 姓を諸葛、名を瑾という。
 孫権に、身の上をたずねられて、その人は語った。
「郷里は、瑯琊の南陽(山東省・泰山の南方)であります。亡父は諸葛珪と申して、泰山の郡丞を勤めていましたが、私が洛陽の大学に留学中亡くなりました。その後河北は戦乱がつづいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東に避難いたし、弟や姉は、私と別れて、荊州の伯父のところで養われました」
「伯父は、何をしておるか」
「荊州の刺史劉表に仕え重用されていましたが、四、五年前乱に遭って土民に殺され、いまはすでに故人となっています」
「御身の年齢は」
「ことし二十七歳です」
「二十七歳。すると、わが亡兄の孫策と同年だの」
 孫権は非常になつかしそうな顔をした。
 魯粛はかたわらから、
「諸葛兄は、まだ若いですが、洛陽の大学では秀才の聞えがあり、詩文経書通ぜざるはありません。ことに自分が感服しているのは継母に仕えること実の母のようで、その家庭を見るも、瑾君の温雅な情操がわかる気がします」と、その為人を語った。
 孫権は、彼を呉の上賓として、以来重く用いた。
 この諸葛瑾こそ、諸葛孔明の実兄で、弟の孔明より年は七つ上だった。



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孫権立つ_02

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 それは弟の孫権だった。
 孫権は、泣きはらした眼をふせながら、兄孫策の枕頭へ寄って、
「兄上、お気をしっかり持って下さい。いまあなたに逝かれたら、呉の国家は、柱石を失いましょう。そこにいる母君や、多くの臣下を、どうして抱えてゆけましょう」
 と、両手で顔をつつんで泣いた。
 孫策は、いまにも絶えなんとする呼吸であったが、強いて微笑しながら、枕の上の顔を振った。
「気をしっかり持てと。……それはおまえに云いのこすことだ。孫権、そんなことはないよ。おまえには内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲を賭けるようなことは、おまえはわしに遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難をわすれずに、よく賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもり、百姓を愛し、堂上にあっては、よく母に孝養せよ」
 刻々と、彼の眉には、死の色が兆してきた。病殿の内外は、水を打ったように寂として、極めてかすかな遺言の声も、一様にうなだれている群臣のうしろの方にまで聞えてくるほどだった。
「……ああ不孝の子、この兄は、もう天命も尽きた。慈母の孝養をくれぐれ頼むぞ。また諸将も、まだ若い孫権の身、何事も和し、そして扶けてくれるように。孫権もまた、功ある諸大将を軽んじてはならんぞ。内事は何事も、張昭にはかるがよい。外事の難局にあわば周瑜に問え。……ああ周瑜。周瑜がここにいないのは残念だが、彼が巴丘から帰ってきたらよう伝えてくれい」
 そういうと、彼は、呉の印綬を解いて、手ずからこれを孫権に譲った。
 孫権は、おののく手に、印綬をうけながら、片膝を床について、滂沱……ただ滂沱……涙であった。
「夫人。……夫人……」
 孫策は、なお眸をうごかした。泣き仆れていた妻の喬氏は、みだれた雲鬢を良人の顔へ寄せて、よよと、むせび泣いた。
「そなたの妹は、周瑜に娶合わせてある。よくそなたからも妹にいって、周瑜をして、孫権を補佐するよう……よいか、内助をつくせよ。夫婦、人生の中道に別れる、これほどな不幸はないが、またぜひもない」
 次に、なお幼少な小妹や弟たちを、みな近く招きよせて、
「これからはみな、孫権を柱とたのみ、慈母をめぐって、兄弟相背くようなことはしてくれるなよ。汝ら、家の名をはずかしめ、義にそむくようなことがあると、孫策のたましいは、九泉の下にいても、誓ってゆるさぬぞ。……ああ!」
 云い終ったかと思うと、忽然、息がたえていた。
 孫策、実に二十七歳であった。江東の小覇王が、こんなにはやく夭折しようとは、たれも予測していなかったことである。
 印綬をついで、呉の主となった孫権は、この時、まだわずか十九歳であった。
 けれど、孫策が臨終にもいったように、兄の長所には及ばないが、兄の持たないものを彼は持っていた。それは内治的な手腕、保守的な政治の才能は、むしろ孫権のほうが長じていたのである。
 孫権、字は仲謀、生れつき口が大きく、頤ひろく、碧眼紫髯であったというから、孫家の血には、多分に熱帯地の濃い南方人の血液がはいっていたかもしれない。
 彼の下にも、幼弟がたくさんあった。かつて、呉へ使いにきた漢の劉琬は、よく骨相を観るが、その人がこういったことがある。
「孫家の兄弟は、いずれも才能はあるが、どれも天禄を完うして終ることができまい。ただ末弟の孫仲謀だけは異相である。おそらく孫家を保って寿命長久なのはあの児だろう」
 この言は、けだし孫家の将来と三児の運命を、ある程度予言していた。いやすでに孫策にはその言が不幸にも的中していたのである。



 呉は国中喪に服した。空に哀鳥の声を聞くほか、地に音曲の声はなかった。
 葬儀委員長は、孫権の叔父孫静があたって、大葬の式は七日間にわたってとり行われた。
 孫権は喪にこもって、ふかく兄の死をいたみ、ともすれば哭いてばかりいた。
「そんなことでどうしますか。豺狼の野心をいだく輩が地にみちているこの時に。――どうか前王のご遺言を奉じて、国政につとめ、外には諸軍勢を見、四隣にたいしては、前代に劣らぬ当主あることをお示し下さい」
 張昭は、彼を見るたびに、そういって励ました。
 巴丘の周瑜は、その領地から夜を日についで、呉郡へ馳けつけてきた。
 孫策の母も、未亡人も、彼のすがたを見ると、涙を新たにして、故人の遺託をこまごま伝えた。
 周瑜は、故人の霊壇に向って拝伏し、
「誓って、ご遺言に添い、知己のご恩に報いまする」と、しばし去らなかった。
 そのあとで、彼は孫権の室に入って、ただ二人ぎりになっていた。
「何事も、その基は人です。人を得る国はさかんになり、人を失う国は亡びましょう。ですからあなたは、高徳才明な人をかたわらに持つことが第一です」
 周瑜のことばを、孫権は素直にうなずいて聞いていた。
「家兄も息をひく時そういわれた。で、内事は張昭に問い、外事は周瑜にはかれとご遺言になった。きっと、それを守ろうと思う」
「張昭はまことに賢人です。師傅の礼をとって、その言を貴ぶべきです。けれど、私は生来の駑鈍、いかんせん故人の寄託は重すぎます。ねがわくは、あなたの補佐として、私以上の者を一人おすすめ申しあげたい」
「それは誰ですか」
「魯粛――字を子敬というものですが」
「まだ聞いたこともないが、そんな有能の士が、世にかくれているものだろうか」
「野に遺賢なしということばがありますが、いつの時代になろうが、かならず人の中には人がいるものです。ただ、それを見出す人のほうがいません。また、それを用うる組織が悪くて、有能もみな無能にしてしまうことが多い」
「周瑜。その魯粛とやらは一体どこに住んでいるのか」
「臨淮の東城(安徽省・東城)におります。――この人は、胸に六韜三略を蔵し、生れながら機謀に富み、しかも平常は実に温厚で、会えば春風に接するようです。幼少に父をうしない、ひとりの母に仕えて孝養をつくし、家は富んでいるものですから東城の郊外に住んで、悠々自適しています」
「知らなかった。自分の領下に、そういう人がおろうとは」
「仕官するのを好まないようです。魯粛の友人の劉子揚というのが、巣湖へ行って鄭宝に仕えないかとしきりにすすめている由ですが、どんな待遇にも、寄ろうとしません」
「周瑜、そんな人が、もしほかへ行ったら大変だ。ご辺が参って、なんとか、召し出してきてくれないか」
「さっきもいった通り、いかなる人材でも、それをよく用いなければ、何にもなりません。あなたに真の熱情があるなら、私がかならず説いて連れてきますが」
「国のため、家のため、なんで賢人を求めて、賢人を無用にしよう。いそいで行ってきてくれい、ご苦労だが」
「承知しました」
 周瑜はひきうけて、次の日、東城へ立った。そして魯粛の田舎を訪ねるときは、わざと供も連れず、ただ一騎で、そこの門前に立った。
 ちょうど田舎の豪農というような家構えだった。門の内には長閑に臼をひく音がしていた。



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孫権立つ_01

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「あっ、何だろう?」
 宿直の人々は、びっくりした。真夜半である。燭が白々と、もう四更に近い頃。
 寝殿の帳裡ふかく、突然、孫策の声らしく、つづけさまに絶叫がもれた。すさまじい物音もする。
「何事?」と、典医や武士も馳けつけて行った。――が、孫策は見えなかった。
「オオ、ここだ。ここに仆れておいでになる」
 見れば、孫策は、牀を離れて床のうえに俯伏していた。しかも、手には剣の鞘を払って。
 その前にある錦の垂帳はズタズタに斬りさかれていた。
 宿直の武士がかかえて牀にうつし、典医が薬を与えると、孫策はくわっと眼をみひらいたが、昼間とは、眸のひかりがまるでちがっていた。
「于吉め! 妖爺めッ。どこへ失せたか」
 口走るのである。明らかに、ただならぬ症状であった。
 しかし夜が明けると、昏々と眠りに落ち、日が高きころ目をさまして、平常に回ってきた。
 彼の母とともに夫人も見舞にきていた。老母は涙をうかべて云った。
「そなたはきのう神仙を殺したそうじゃが、なんでそんなことをしてくれたか。どうぞきょうから祭堂に籠って仙霊に懺悔し、七日のあいだ善事を修行してくだされ」
「ははは――」孫策は哄笑して――「母上、この孫策は、父孫堅にしたがって、十六、七歳から戦場に出で、今日まで名だたる敵を斬ることその数も知れません。なんで妖法をなす乞食老爺ひとりを殺したからといって、祭堂に籠って天に詫びることをする要がありましょう」
「いえいえ、于吉は、凡人ではない。神仙です。神霊の祟りをそなたは恐れぬのか」
「恐れません。わたくしは、呉の国主です」
「まあ、いくら諫めても、そなたは強情な……」
「もう仰しゃって下さるな、人には人の天命ありです。いくら妖人が祟ろうと、人命を支配するなどという理はうなずけません」
 やむなく老母と夫人は、愛児のため、良人のため、自身が代って修法の室に籠り、七日のあいだ潔斎して祷りを修めていた。
 けれどその効もなく、毎夜、四更の頃となると、孫策の寝殿には怪異なる絶叫がながれた。
 于吉のすがたが現れて、彼の寝顔をあざ笑い、彼の牀をめぐり、彼が剣を抜いて狂うと、忽然、夜明けの光とともに掻き消えてしまうらしい。
 目に見えるほど痩せてきた。そして孫策は、昼間も昏々とつかれて眠り落ちている日が多かった。
 母は、枕元へきて、頼むようにまたいった。
「策。どうぞ、おねがいですから玉清観へお詣りに行ってください」
「寺院に用はありません。父の命日でもありますまい」
「わたくしから、玉清観の道主におすがりしたのじゃ。天下の道士を請じて香を焚き、行を営んで、鬼神のお怒りをなだめていただくように」
「孫策は幼少からまだ、父が鬼神を祭ったのは、見たこともありませんが」
「そんな理窟はもういわないでおくれ。英魂も怨みをのこしてこの土に執着すれば鬼神になる。まして罪もなく殺された神仙の霊が祟りをなさずにいましょうか」
 老母はよよと泣く。夫人も泣きすがって諫める。孫策もそれには負けて、遂に轎の用意を命じ、道士院の玉清観へおもむいた。
「ようこそ」
 と、国主の参詣をよろこんで、道主以下、大勢して彼を出迎え、修法の堂へ導いた。
 気のすすまない顔をして、孫策は中央の祭壇に向い、まるで対峙しているように睨みつけていたが道主にうながされて、やむなく香炉へ香を焚いた。
「――おのれッ!」
 何を見たか、とたんに孫策は、帯びたる短剣を、投げつけた。剣は侍臣のひとりに突刺さったので、異様な絶叫が、堂に籠った。



 縷々とのぼる香のけむりの中に于吉のすがたが見えたのである。
 投げた剣は侍臣を仆し、その者は、七穴から血をながして即死しているのに、孫策の眼には、なお何か見えているらしく、祭壇を蹴とばしたり、道士を投げたりして暴れ狂った。
 そのあとはまた、いつものように疲れきって、昏々と眠るが如く、大息をついていたが、われにかえると急に、
「帰ろう」と、ばかりに玉清観の山門を出ていった。
 ――と、路傍に沿って、飄々と一緒についてくる老人がある。孫策が轎の内からふと見ると、于吉だった。
「老いぼれっ、まだいるかっ」
 叫んだとたんに、彼は、簾を斬り破って轎から落ちていた。
 城門を入るときにも、狂いだした。瑠璃瓦の楼門の屋根を指さして、そこに于吉がいる。射止めよ槍を投げよと、まるで陣頭へ出たように、下知してやまないのであった。
 暴れだすと、大勢の武士でも、手がつけられなかった。寝殿は毎夜、不夜城のごとく灯をともし、昼も夜も、侍臣は眠らなかったが一陣の黒風がくると、呉城全体があやしく揺れおののくばかりだった。
「この城中では眠れない」
 遂に孫策もそう云いだした。で――城外に野陣を張り、三万の精兵が帷幕をめぐって警備についた。彼の眠る幕舎の外には、屈強な力士や武将が斧鉞をもって、夜も昼も、四方を守っていた。
 ところが、于吉のすがたは、眦を裂き、髪をさばいて、それでも毎夜彼の枕頭に立つらしかった。そして彼に会う者はみな、彼の形容が変ってきたのに驚いた。
「……そんなに痩せ衰えたろうか」
 孫策は或る折、ひとり鏡を取寄せて、自分の容貌をながめていたが、愕然と、鏡をなげうって、
「妖魔め」と、剣を払い、虚空を斬ること十数遍、ううむ――と一声うめいて悶絶してしまった。典医が診ると、せっかく一時なおっていた金瘡がやぶれ、全身の古傷から出血していた。
 もう名医華陀の力も及ばなくなった。孫策も、ひそかに、天命をさとったらしく、甚だしい衰弱のなおつづくうちにもその後はやや狂暴もしずまって、或る日、夫人を招いておとなしくいった。
「だめだ……残念ながらもうだめだ……こんな肉体をもって何でふたたび国政をみることができよう。張昭をよんでくれ。そのほかの者どももみなここへ呼びあつめてくれ。……云いのこしたいことがある」
 夫人は、慟哭して、涙に沈んでいるばかりだった。典医や侍臣たちは、
「すこし、ご容子が……」と、すぐ城中へ報らせた。
 張昭以下、譜代の重臣や大将たちが、ぞくぞくと集まった。
 孫策は、牀に起き直ろうとしたが、人々が強いてとめた。わりあいに彼の面色は平静であったし、眸も澄んでいた。
「水をくれい」と求めて、唇の渇きをうるおしてから、静かに彼はいいだした。
「いまわが中国は、大きな変革期にのぞんでいる。後漢の朝はすでに咲いて凋落におののく花にも似ている。黒風濁流は大陸をうずまき、群雄いまなおその土に処を得ず、天下はいよいよ分れ争うであろう。……ときに、わが呉は三江の要害にめぐまれ、居ながらにして、諸州の動向と成敗を見るに充分である。とはいえ、地の利天産にたのむなかれ。……あくまで国を保つものは人である。汝ら、われ亡きあとは、わが弟を扶け、ゆめ怠るな」
 そういって、細い手を、わずかにあげて、
「弟、弟……孫権はいるか」と見まわした。
「はい、はい、孫権はここにおりまする」
 群臣のあいだから、あわれにもまだ年若い人の低い声がした。



posted by takazzo at 11:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 孔明の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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